2021年10月31日礼拝「牧場に降る雨のように」

詩編72 編1-7,12-14,18-19 節

王が牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となりますように。(詩72:6)

「王は公正な裁きをする人であって欲しい。王は正義の体現者であって欲しい。」
詩編72 編の詩人はそう叫んでいます。助けを求めて叫んでいる困窮者たちが救われないで放置されている。法の目をかいくぐって為される高官らによる不正や収奪のせいで、貧しい人々はいよいよ窮地に立たされ、弱い人々は死の淵に追いやられている。この現実を王は知っているのだろうか。知っていて動こうとしないのか。それとも、こうした悪政と棄民はその王から出てきているのか。神よ、もうごめんです。私たちが求めているのは、神の公正です。神の義です。そして平和です。あなたの中にこそ、この全てがあり、王はただただ、それを映し、民のためにそれを政治や社会の仕組みの流れにしていく責任を持つはずなのです。そのことを通して、公正の源、正義の源、平和の源なる神が賛美されるべきなのです。神よ、あなたの真実が明らかになりますように。そのような王を私たちは「牧場に降る雨を待つ枯れかけた草地のように」待ち望んでいるので
す。詩人はそのような想いで、この詩を詠っています。一見、王を祝福する詩のようにも詠める詩編72 編ですが、そこには虐げられた民たちの王への批判と、正義に餓え渇いた民衆の怒りが込められています。
イエスもまた、この詩を読んで育ちました。ローマ皇帝の支配とヘロデ王の醜政、その二重の圧政の中、富を享受するのはわずかな人々で、大多数の民衆は息絶え絶えに暮らしているのが現実でした。民衆の最下層にあっては、宗教的「罪人」と烙印を押された「不可触民」(アウトカースト)を造りだし、それらの人々への差別を利用しながら民の怨讐を操作していた当時の宗教政治体制の中で、イエスは「王」を見つめ、人々の救いを見つめていました。それゆえ、主イエスは、自らがエルサレムに入城するときに、あえて「子ろば」を借り、その背に座って進まれたのです。彼はゼカリヤ書の預言の言葉にこそ詩編の詩人が求めた「来たるべき『王』」の姿を見たからです。

「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗ってくる。」ゼカリヤ9:9

詩人の渇望は、イエスに受け取られ、子ろばの背中から十字架への道を通って、人間の歴史に「新しい王の姿」として刻印されたのでした。今日は衆議院議員選挙と最高裁裁判官の国民審査の投開票日です。詩人が発した叫び、イエスが見つめたもの、それに重なる気持ちでこの日を過ごしたいと思います。【吉髙叶】

 

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