2021年6月13日礼拝「主の愛からの交わり」

Ⅰヨハネ3:16-24

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。」(ヨハネ一3:16)

 紀元30年頃、ナザレから出現したイエスが、ガリラヤを起点にして「神の国のせまり」を宣言する歩みを始めました。「神の国は近づいた。悔い改めて(まなざしを新たにして)福音を信じなさい(この知らせを受け入れなさい)。」
イエスの時代、ユダヤ教律法・律法主義にがんじがらめにされて、病人たちや貧困層などの社会的弱者のほぼ全員が罪人・失格者と烙印を押されている世界・社会の中に踏み出ていって、「そんなことはない。あなたは神に愛されている。あなたこそ神の子だ。神はあなたに神の国をくださるのだ。」と、イエスはそれらの人々に呼びかけて、生きる勇気を注ぎ続けていきました。しかし、イエスは、その歩みをすればするほどなじられました。「罪人」たちに寄り添えば寄り添うほど嫌われました。「罪など贖われなくても、あなたは神の愛によって神の国に招かれている」と語るイエスの宣言は、「救われるためには『償い』や『贖い』が必要だ。たいへんな努力と積み重ねが必要なのだ。」と考えるユダヤ宗教者たちから疎まれ、危険視され、暗殺が謀られ、最後はさらしものとなって、しかもローマ帝国への反逆者として処刑されました。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。」
 そのような主イエスのこの世での生を振り返るとき、冒頭にお読みしたこの一ヨハネ3:16の言葉を、できあがった教理的なフレーズとして受け止めるのではなく、イエスの生と死の情景を呼び戻しながら聞いていきたいのです。そこにある「イエスは、わたしたちのために」とは「イエスは、わたしたちが、そのままで神から愛されていることを受けとめるために」ということです。わたしたちのこの生・この人生が「罪人」とか「失格者」とか「必要のない命」だとかの攻撃に苦しめられることがないために、わたしという存在がこの社会からも失われることなく、また自分で自分を失ったしまうことがないために、そのような意味での「ために」であります。そして、わたしが、わたしたちが、この神から存分に愛され、祝福されている存在であるということを、わたしたちに伝え、わたしたちがそこからのびのびと生きることができるようになるために、の「ために」であります。
 「命を捨ててくださいました。」とは「イエスにとって、それを言い抜くことはいつも身を削るようなことだったのであり、命を削るような歩みだったのであり、その結果、ついに彼はこの世から削り捨てられてしまった」ということです。このイエスを見つめる時、そのことによって、私たちは「愛を知る」のです。

 愛を知るのです、このイエスを通して。愛を巡る様々な言葉があります。愛を巡る様々な受け止め方がありましょう。しかし、わたしたちは、イエスを通して、イエスのわたしたちへの関わり方を通して、「そのことによって、わたしたちは愛を知り」愛を捉えるのです。
 そして、イエスによって知らされた愛とは、「わが身を削りながら、誰かを祝福し」「わが身を削りながら、誰かを迎え入れる」ことであります。愛することとは「まずは神の愛を受け入れる」ことであり、「神の愛を誰にでも、そのままの相手に宣言すること」です。そして、イエスが別れの夜に弟子たちに遺した、しかも「新しい掟としてあなたたちに与える」と言って言い遺された「あなたたちも互いに愛し合いなさい」という言葉は、まさに「あなたたちも身を削り合いながら、互いを迎え入れ合い、祝福を宣言し合いなさい」ということです。

 話の道をすこし外れます。わたしは、ずっとキリスト教の単純化された教理、単純化されたからこそかえって難しくなってしまったと思われる教理にずっと捕らわれていたと思います。その一つが贖罪論です。まだまだわたしにとっては、イエス・キリストを理解する上で大切な概念ではありますが、「わたしたちのために、命をすててくださった」というフレーズにイエスの地上での生と死とをそこに呼び戻そうとすることなく語ってしまうあり方に少しずつ疑問を抱くようになりました。キリスト教のキリストと、地上を生きられたイエスとの緊張関係を忘れてはならないのではないか。キリスト教が教理化し、つくりあげたきてしまったキリストを、空中に仰ぎ続ける信仰ではなく、この地上に呼び戻し、イエスこそキリスト、イエスをこのわたしたち人間の地平に呼び戻すようにして見つめていく、そのようにしながら現実の世界と聖書の証を重ね合わせ、対話させて生きてみる、それが聖書を読むという営みなのではないか、と思うようになりました。
 贖罪論について素朴に考えてみれば、不思議なことに気づきます。もともと主イエスは、「罪は贖われなくてもいい。そのままで神に愛されている」と宣言されたのに、後の教会は「天国や救いに入るために、あなたは罪を贖われなければならない」という「贖罪論」を強調するようになりました。また、「これを信じれば、救われる」という(信仰義認と呼ばれるが実は立派な)行為義認を振りかざすようになりました。律法が信仰に変わったけれども、「○○すれば」という行為義認のままなのです。パウロが確かにそうした教理的なものの発芽であると考えることができますが、彼がその時代に論敵としたユダヤ律法主義への批判やローマ権力支配への批判としての文脈の中で、彼の言葉が選ばれていることを理解しないでパウロ書簡を読んでいきますと、まさしく「義人でなければ神の国に受け入れられない」ような読み方になりますし、すなわち「罪人のままでは天国に入れないので、償われ、贖われなければならない」という教理にしがみついていくようになります。後の教会は、その結果、教会の交わりの中に再び、「救われている人・いない人」とかの線引きをもちこんだり、「救いに与ったはずなのに再び罪に墜ちてしまった」とか「赦されているのに繰り返し罪を犯してしまいます」という、まるで、人間はどこかの時点で罪人を卒業できるかのような理解が浸透してしまったりしています。笑い話ではありませんが、「教会だって罪人の集まりなんです」とか「牧師先生と言えども一人の人間なのです」とか、いわば当たり前のことを、わざわざ言わなければならないようなことも起こります。 もちろん、「わたしたちのために、主が命を捨ててくださった」ことを、一人ひとりが自分の人生に繰り返し重ねて「わたしのため」とか「命を捨ててくださった」ことを自分の何に関わってくださったことなのかと考えていくことは、とても大切で尊いことです。そのときに、十字架に歩まれたイエスが、その人の中で呼び戻されることが大切なのではないかと思います。
 先々週の「主の晩餐」を考える宣教、先週・今週の「ヨハネの手紙」と、連続して、教理として告白されているキリストと、もはや目で見ることはできないのですが、地上を歩まれたイエスの生と死との緊張関係を、本日も語らせていただいています。
 16節からの聖書テキストに改めてもどります。
 さきほどの16節前半のことばに引き続き「だからわたしたちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」とあります。さきほど、愛とは、「身を削りながら誰かを祝福すること」「身を削って誰かを迎え入れること」と表現しましたのは、この箇所を念頭に置いてのことでした。と言いますのは、わたしたちは、そう簡単に「きょうだいのために命を捨てることなどできない」し、またそう簡単に「命を捨ててはならない」と思うからです。 イエスの十字架への道、イエスの死、は、先ほど申しました、「自分の命を差し出した」というよりは、まさしく一人の小さな人を祝福し、迎え入れるために身を削り続けた歩みであったし、その結果として、この世からその命を削り取られていった生と死でありました。ですから、わたしたちの感覚としては、「友のため、きょうだいのために命を捨てる」というより「身を削りながらいっしょに生きる」「友のために、きょうだいのために身を削るようにして共に生きてみる」という方がより身近に迫ってくるのではないでしょうか。確かに、他者と向かい合い、その人に手を携え始めたとたん、身が削られ、心も削られ、時間も削られるのは、ほんとうにその通りだからです。
 それに、「身が削られるような思いをすることない交わり」には、あまり「愛」は必要ないのかもしれません。まさに愛の力とでも言うべき物を発揮しなければならないのは、自分の身を削らざるをえないような場面だと言えます。
 17節に続きますように「きょうだいが必要な物に事欠くのを見て同情する」とき、わたしたちは何らかの身を削る関わりを求められます。限界はありますけれど、身を削ってその必要に届いていこうとするわけです。どうしてわたしが、と思うこともあるのですが、出会ってしまったからには、と覚悟を決めていきます。いえ、その人が「事欠いている」その必要に、自分は関わりがないとは言えない、と考えることもあります。たとえば、いま、ミャンマー民衆が「必要に事欠いて」あえぎ、苦しんでおられますが、あの苦しみに対する関係と責任をわたしたちは強く感じるから、わたしたちは苦しいのです。何かをしなくてはならないのではないか、と身もだえるわけです。わたしは身を削られるべきなのではないか、とも思えるのです。
 限界を感じます。足りなさを実感します。自分の中からもう出てこない、これ以上は無理という気持ちになります。ただそこで、17節後半の「どうして神の愛がそのような物の内にとどまるでしょう」という言葉にはっとするのです。「とどまる」ものとしての愛。そう、そもそも、その思いは、それが愛と呼ばれるものだとして、その愛は、わたしの中から出ているのではなくて、神の愛がその都度流れてきて、わたしたちの関わり合いや交わりをそのように動かしていることを忘れてはならないということです。

 みなさん水車小屋を思い浮かべてみてください。田園風景の中に静かに回る水車小屋です。水車は回りながら、小屋の中で仕事をしています。粉をひく仕事、サトウキビを搾る仕事。粉や砂糖、そうした善き物を生み出すために水車は回ります。わたしたちもそのような「実り」のために働きたい。
 しかし、水車は自分自身で回っているのではありません。その歯車を小川の流れの中に浸して、水が水車を回しているのです。尽きない、流れ続ける川の水によって回っています。動力は水です。この水の流れを忘れて歯車の手入れをしても、ベアリングを精巧にしても油を差しても、水の流れに歯車を浸していなければ回らないのです。
 また、どんなに水の流れにまかせてくるくる回っていても、小屋の中の挽き臼と連結していなければ、実りにつながらないのです。水に身を浸し、挽き臼につながるときに、水車は良い仕事を果たすのです。神から、そして、主イエスから来る愛。それにつながり、他者とまじわり、誰かの「事欠き」に手を伸ばしながら、歩んでまいりまたいと思います。

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