ヤコブの手紙 1章19節、2章1節、5節
だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブの手紙1章19節)
7月8日のNHK“あさイチ”で「いのちの電話」の活動が取り上げられていました。生きることに苦しくなり、ぎりぎりの状態で電話をかけてくる人たちの声に耳を傾ける活動です。格差社会の煽りを受け、経済的な不安定さや雇い止め、またハラスメントや家庭内暴力に苦しんみ痛んできた人々、特に若い世代の女性たちに、新コロナ状況はさらに深刻な追い打ちをかけています。ボランティア相談者たちは、自殺の可能性を帯びた相談者たちの言葉に、心配しながらも忍耐強く耳を傾けていかれます。「寄り添っていると、こっちも暗い気持ちになり、いっしょにどんどん落ちていきます。・・・でも、ふと、相談者の口から前向きな言葉が出てきたりするのです。『聞く』ということには、すごい力があると思わされます。」一人の相談員はそう語っておられました。
教会は、宣教(ミッション)の中心に常に伝道を据えてきました。伝道はイエス・キリストの福音を伝えることですから、どうしても発信することに重点を置いてきました。語ること、伝えること、届けること。その発信力が強いことを「伝道的である」とか「伝道力がある」と評価してきました。牧師たちに求められるものもそうでした。優れた説教とは、魅力的に人を引き込み、わかりやすくキリスト教の要点を語るプレゼンテーション能力に長けたものという風に考えてきました。そうです、「教会」は自らの自己理解を「発信器」としての役割に置いてきたのでした。ですから、教会に来会者が来ないとか定着しないとなると、どうすればもっと力強く語れるのか、とか、どうすればもっと有効に発信できるのかと悩み、新しい発信方法を学ぼうとしてしまいます。
「教会」は根本的に変わらなければならないと思います。「宣教」を、語ることではなく聞くこととして位置づけ直さなければならないのではないか、と。つまり、教会の自己理解を「発信器」としてではなく「受信器」としてのそれに据え直す必要があるのだと思います。そもそも、発信者は相手がどうであれ、まずこちらが発信したいことを既に決めています。前もって用意されたキリスト教メッセージ。それはどうしても、キリスト教が大切にしている教理の発信になります。けれども、イエス・キリストの生きた働きは、教会が前もって用意してしまえるようなものではありません。むしろ、教会の外に生きる人々の中で、キリストは歩んでおられます。教会が、人々を通して、生きて働かれるキリストの声を聞かせていただく必要が、まずはあるのです。 【吉髙 叶】