マタイによる福音書27章32-50節
神の独り子が真に人となられて私たちの間に遣わされる。神の本質・御心が人の姿をとるときに、どのような「人間の姿」をとることがふさわしかったのでしょうか。皇帝や王のように人々の上に君臨する姿ならば、神の御心は最も正しく現れたのでしょうか。神は人間を支配し、人間から仕えられることを望んだのでしょうか。いいえ、そうではありません。
あるいは、医者だったら御心がふさわしく現せたのでしょうか。教師なら分かり易いのでしょうか。政治家なら良いのでしょうか。宗教家ならそれらしいのでしょうか。いいえ、神の御心、神の想いが私たち人間の中で徹底的にリアルに姿を取るとしたならば、それは、全ての人間の足下にひざまずき、その汚れをぬぐう仕事をさせられる「僕・しもべ」以外の姿で現しようがなかったのです。
神の御心、神の本質が「愛」であるからこそ、しかもいわゆる「やさしいよりそい」ということでなく、徹底した愛、すなわちその人がどうであっても神の手の中に受け入れようとする愛であったからこそ、またその人がどのような状態であっても共にいる愛であったからこそ、「僕の姿」を取るしか無かったのです。
この徹底した愛が生まれるにふさわしい場所は、みじめさ・貧しさの極地である家畜小屋の餌箱の中でしかなかったし、この徹底した神の愛が歩む道は、苦しみを生きる人々をつぶさに訪ね歩く旅空にしかなかったし、この徹底した愛が死ぬ場所は、人間の死に場所の中ではもっとも辱められしかも苦痛を伴う十字架という処刑場でしかありえなかったのです。神が人の姿を取るならば、神の愛の御心が肉体をとって生きるならば、イエス・キリストのご生涯の姿がそのかたちであったのだと、聖書は私たちに証しています。そして、このイエスの十字架に躓かない者は幸いだと呼びかけています。十字架のキリストこそが、神の愛の徹底性を示しています。最も孤独な場所、最も悲惨な場所、最も残忍な場所、最も冷酷な場所に張り付くほどまでに貫徹された神の愛。それが十字架のイエス・キリストが指し示している神の御心です。
そして、その苦しみに喘ぐキリストの十字架のふもとに、そこに私もいたのであります。 「黒人霊歌」に次のような歌詞の歌があります。「きみも、そこにいたのか。主が十字架につくとき。あぁ、なんだか心が震える。きみも、そこにいたのか。」
私がそこにいたのです。十字架を私と無関係だと考えるのは、神の愛が私と縁のないものだと考えることを意味します。神の愛が私に注がれていると信じたい者は、それは十字架において私と関係しているのだと考えていく必要があります。「神は、私を愛してくださっている。それはとても嬉しい。しかし、キリストの十字架と私とは直接関係ありません。」そのように、神の愛を「切り貼り」することはできないのです。
マタイの報告するイエスの受難の記事には様々な人間の姿が描かれています。たとえばイエスの裁判の記事・場面(本日は読みませんでしたが)には次のような登場人物がいます。それぞれの思惑をもって集まってきていました。
ローマの総督ピラト。罪状を吟味し、判決を下し、あるいは罪人を放免することのできる裁判官という立場からイエスに尋問するビラトがいます。
罪をとがめ、罪を告発する検察官のような立場から、イエスを法廷に突き出す祭司長・律法学者・長老たちがいます。
うっぷんと刺激の矛先を、自分たちの期待を満たすことの無かったイエスに向けて爆発させていく群衆がいます。
命令とあらば、事の意味を考えることもせず、侮辱とさげすみと暴力をもって被告人にリンチを加える、ただ残忍を楽しんでいるローマ兵たちがいます。
いるべき人々がいません。そうイエスの弟子たちは、とっくに逃げ去っていたのでした。 これらの人々がイエスを取り囲み、イエスを裁く裁判をつくりあげていました。裁判長がビラトで、検察が祭司長・律法学者たち、そして陪審員が群衆で、刑の執行人がローマ兵です。これらに取り囲まれた裁判、それが神の子イエスを裁く裁判でした。これが、救い主を審問する裁判でした。ある人々は悪意をもって、ある人々は何らかの危機感や緊張感をもって、ある人々は興奮にかられて、ある人々はおもしろ半分にイエスを取り囲みました。聖書はこの場面に、人間世界の拭いがたい罪の姿を描いています。そこにわたしもいたのです。
彼らは、イエスの罪状づくりのために議論しました。イエスの行為と言葉とが死に値するかどうかを審問しました。免罪できるかできないか。酌量の余地があるかないか。どのような刑罰が妥当なのか、と興奮して攻防しているのです。総督ビラトは、何度かイエスを擁護しようとしていますが、それとて、イエスの言葉やふるまいに、尊敬の念を抱いていたからではなく、ユダヤの告発人たちの陰謀が忌々しかったからであり、また植民地のユダヤを治める責任者として、とにかく丸く収めたいという気持ち以外の何ものでもありませんでした。ですから、彼の擁護はほとんど力を持たず、悪意と鬱憤晴らしの欲求に、救い主を引き渡していきました。
人間たちが、神の子を、救い主を葬るために造り上げた裁きの場とはこういうものでした。しかし・・・。
イエスがゴルゴタに歩まれたのは、人々による決定のようですが、しかしそうではありません。イエスが十字架に吊されたのは、神のご意志によってです。ただ、主イエスは、ゲッセマネの暗闇の中で、神の沈黙の中に聴き取った「神の意志」に従って十字架に進んでいかれるのです。人間が神の独り子を十字架に張り付けた、それは一方では明白な事実なのですが、そこには、神がその独り子を十字架にささげられる決心をなさったという「神の意志」があります。イエスは、すでにエルサレムに登ってくるときからその神のご意志を生きていたのです。さらにゲッセマネでの苦悶の祈りを通して、この杯が(父なる)神の意志であることを定め取り、その杯を受け取っていました。
ビラトは、裁判の場でイエスが一言も弁解をしないことを不思議に思ったのです。たしかに何一つ言葉がありません。弁明、訴え、命乞い、呪い、無念の言葉、そうした人間としてはありそうな、あるべき言葉が何もありません。不思議にさえ感じます。まさしく、十字架は、人間の思惑と決定の結果なのではなく、神の御心であり、神の意志への服従を決めたイエスの選ばれた道なのです。それゆえ、イエスもまた沈黙なさるのです。そこにはただ、その全ての苦い杯を受け、荊の冠を受け、張りつけられて死ぬという静粛な厳しさがあるのです。そこには、もはや沈黙があるのみなのです。
マタイの報告する十字架の場面にも人々の姿が描かれています。罵る人々の様子です。 しかし、ここでも神の沈黙、イエスの沈黙が貫かれていきます。
「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」
「他人は救ったのに、自分は救えないのか」
「十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやる」
「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」
沈黙する神の独り子に浴びせた人間の言葉が、このあまりにも汚らしく残忍で傲慢な言葉です。
自分の欲望の中から神を見たい、神を見せろと要求している人々。
自分の思い通りの神を要求している人々。
人間にとって価値がある神を求め、役に立つ神を呼び出そうとしていく人々。
自分が神を見定め、自分が神を認定してやろうとする人々。
神を従えようとし、神を見失い、いえ神を捨ててしまう人間の姿。そこに、私もいたのです。いまも、わたしはそのような心で生きてしまっています。
この人間を愛し抜くために神が苦しんでおられる。それがイエスの十字架の光景です。この神を罵る人間の前で無力にも沈黙を貫かれる神、屈辱を浴びせられている神。神は苦しんでおられる。神を捨てる世界をそれでも受け入れ、この世界と和解をなさるために神は沈黙しておられるのです。
神と共に生きる。今日は、その生き方の深みを知らされます。それは、私たちの生きる現代、私たちの生きるこの世界で、「神の沈黙を聞きながら生きる」ことでもあるのです。
不条理や理不尽の絶えない世界です。「神の不在」を強く感じ、「神なんていない」と言い切ろうとする世界、あるいは、「神がいるなら○○してくれ、そうすれば信じてやる」と言いのける世界。神の声があたかも響いていないかのようなこの世界の中で、私たちは神の前を生きていくのです。神の沈黙の世界を生きていく、しかし神の前で生きていくのです。神を拒絶する人々の声ばかりが聞こえてくるし、自分自身も神を、神の御心を決定的に証できないでいる、つまり神の沈黙がただよう日常を、生きていくのです。神の前に生きていく。「神と共に生きる」ということの一つの苦悩です。しかし、イエスが十字架を生き抜かれた姿こそ、神の沈黙の世界を神の前に生き抜いた姿ではなかったでしょうか。
イエスが決定的に生き抜かれたこの態度、この信仰こそが、あらゆる宗教との明確な相違点です。人間が持とうとする信仰、あるいはつくりあげてきた宗教は、人間が困ったときに、この世にあって、この自分の現実に対して、神の力を示そうとする態度です。人間の陥っている境遇に、神が無理矢理引きづりこまれ一役担わされるのです。しかし、そのような神・「沈黙しない神」「すぐに何かをしゃべり始める神」は、人間を苦しみから本当に救い出すことはできないのです。また、そのような神信仰は、人間をほんとうの意味で成熟させることがありません。
真理を真理とし、愛を愛とし、希望を希望とし、現実の苦しみを苦しみとしていくことができる人のことを「成熟した人間」と呼ぶことができるのではないでしょうか。しかし、そのような人にとっては、この世は苦しいと思います。この世は苦しみに満ちているのではないでしょうか。けれども、やはり大切なことは、苦しむべき事を苦しむことのできる人間として生きることです。罪を、無関心を、敵意を、暴力を、不当な支配を、ほんとうに苦しんでいくことのできる人間、そのような人間こそが「大切な人間」「人間の大切な姿」なのだと思います。そういう人間、そういう人間性が、今、ほんとうに求められているのではないでしょうか。神は、人間をそこへと呼びかけているのではないでしょうか。それが十字架を選ばれ定められ、沈黙の中に人間を贖いたもうた神のメッセージであり、わたしたちへの期待なのではないでしょうか。
十字架を見上げる生き方。そこから、新しい人間がつくられるのです。そこに、神の前を生き、神と共に生きる本来の人間がつくられていくのです。
私たちは十字架のふもとにいました。そして神に赦され受け入れられました。
私たちは、いまも、十字架を見上げるところに生きていたいと思うのです。