2021年6月6日礼拝「互いに交わりながら」

ヨハネの手紙一 1章1-10節

 子どもメッセージで、薫くみこさんの『あのときすきになったよ』を取り上げさせていただきました。「クラスメイト」や「ともだち」をめぐる子どもたちの気持ちの動きが実に生き生きと描かれています。きらいだけど気になる。はりあう。でも金魚のおはかをいっしょに作って、感情を共有する。きらいだったはずなのに、あの子が学校を休んだら自分もつまらなってる。そんな気持ちをすなおに伝えられたら、自分も早く学校に行きたくなる。ぐっと近くなる。そして、自分がたいへんな失敗をしてしまったときに考えられないような大胆な方法で助けてくれる。
 「あのときすきになったよ」。いつ好きになったんでしょうね。いがみあっているときも、ともだちになる伏線だった。悲しみや怒りを共有してともだちになっていく。いないとさみしいという気持ちを通して友だちになる。さみしがってもらって友だちになる。失敗の中でこそ友だちになる。んですね。
 しっこさんは「おもらし」のはずかしさを知っています。失敗の痛手を知っています。だから大胆な方法をとります。友だちを守るために。
 子どもの日常に一場面を切り取りながら、人間の交わりの本質を示してくれています。ぶつかったり、苦手だったりしながらも、気にかけながら歩む。そして人はどんぞこの時こそ友だちになり、失敗の中でこそともだちになる。交わりとはそのようにして作られていくということでしょうか。

 教会の大切な本質は「交わり」にあります。「神と人の交わり」と「人と人との交わり」です。ヨハネの手紙は、交わりの回復を人々に呼びかけている書簡です。
「この世でキリストを信じるということ、つまりキリストと交わるということには、とても試練が伴い、厳しい迫害にさらされる。交わりの場に進み出ることより自分に籠もっていたくなることも多い。でも、それでは、他者につながれない。他人が生きる上で受けている痛みが理解できないし、共感の思いを起こす場面を与えられない。いっしょに喜ぶ場面も味わえない。共感や喜びの共有、それは人間の弱さや失敗の交わりの中に訪れるもの。そのときこそ、主イエスがわたしたちに示してくださった『愛し合いなさい』といういましめ、が発揮されるときとなる。互いに交わりをもちなさい。イエス・キリストは限界と苦しみを身に帯びながら、その弱さの中から人間を理解し、慈しみ、この地上を歩み抜いた。そして十字架に吊されて殺された。けれども神はそのイエスと交わり、そのイエスをよみがえらせた。そのような主イエスと人々、主イエスと神との交わりが私たちを支えているのだから。互いに交わりをもって歩んでいきましょう。」
ヨハネの手紙は、そう呼びかけています。

 さて、「イエス・キリストの生と死をどう受け止めるか。」それは信仰者にとって「何を大事にして生きるか」「どのような交わり・共同体をつくっていくのか」ということととても密接にかかわっています。「主イエス・キリストを、人間が生きる現実の上(上空)に置いて捉えるか」それとも「人間の生の現実のただ中に置いて捉えるか」という違いだとも言うことができます。
 キリスト教の信じ方の中には、イエス・キリストをそもそも世俗の人間を超えている超越的な存在として受け止める立場もけっこうあります。イエス・キリストの「神の子」としての側面を強調し、天にて神の右に座し、すべてを支配しているキリストに憧れ、そのキリストに結合している自分自身の「救い」に強い関心を持つ。そのような信じ方に傾く信仰(とそれを支える機能)を「栄光の神学」と呼びます。栄光の神学は、自分(人間)が聖化されること、罪から自由になること、天の栄光を託された充満感を実感することなどを求めがちです。使用する言葉も「全能の主」「王の王」「御座」「栄光」「御霊の注ぎ」「勝利」「神の小羊」などの表現を多用する傾向にあります。それらの神学は、イエスの十字架の意味を「贖罪論」に集中させていき、人間の罪を贖うために神の子が天から遣わされ、贖いの業を果たして、再び天に昇って行ったという、あくまでも「天の力」「天から天へ」という図式で神の子キリストを重視していきます。また人並み外れたイエスの奇跡や癒やしの力にばかり注目していきます。
 先週の宣教でもお話しましたが、「主イエスの死を記念する」という時、主イエスの罪の贖いという死の意味を記念する側面と同時に、「なぜ主イエスは十字架に架けられる死に方をなさらなければならなかったのか」、それには主イエスの生き方にその理由があるが故に、「主の生を記念する」というもう一つの側面も大切にしていかねばならない、ということをお話ししました。栄光の神学の場合、その後者の方は、抽象化されてしまい、あまり問題にならないわけです。人間の罪の贖いのために天から降りてきて、その業を天の力で成し遂げて、天に戻って行かれたという、そのポイントに集中するわけです。
 こうした「栄光の神学」は、いつの時代にも人間の宗教性と結びつきやすいと感じるのですが、この理解の仕方の原型と申しますか、古くには、ヨハネの手紙が記された頃に流行していた「仮現説」があてはまるように思えます。「仮現説」とは、ざっくり申し上げますと「もともと天に存在していた神の子キリストが、ナザレのイエスがヨルダン川でバプテスマを受けた時に彼と合体し、そして十字架で死なれる直前にイエスの体を離れて天に帰っていった」という理解です。この「仮現説」が2世紀初頭(ヨハネ文書が書かれたとされている紀元100年~120年頃)の教会の中で浸透し始めていたのです。イエスが十字架で死なれた事件があってから、70年~100年が経過していますから、信仰が抽象化していくのかもしれませんが、そう信じ始めていた人たちにとって、イエスの十字架(みじめな敗北のような刑死)はさほど重要なことではなく、むしろ、天のキリストの霊が自分たちに合体して内在している故に、自分たちもまた、この世の現実や自分の実際をさほど気にする必要はなく、「天と結ばれていることこそが実態なのだ」と理解しようとしました。するとどうなるでしょう。関心は「生きる現実や現場」のことよりも「やがて来る天での栄光」のことになってしまい、そもそも自分たちのこの世の現実がどうであれ人間としてはより高いレベルに昇華してしまっているのだから、と、実際は肉体をもっているゆえにいかんともしがたい自らの「罪性」があるはずなのに、それについても不問にしてしまうことになりがちです。観念が現実を覆い隠し、つまり「観念と現実の逆転」が起こってしまうわけです。
 すると交わりの質も変わってきます。人と人との交わりも、生きる痛みや苦しみが互いの接点になるのでなく(つまり人間の弱さが人と人とのつなぎ目となるのでなく)、栄光を受けた者(勝利している姿、どこか強められた姿)の確認が交流の主眼となってしまいます。ということは、必然的に、人間を生きにくく(苦しめたり貶めたり)する現実世界の問題、初代教会の人々にとってそれは端的にローマの暴力支配を背景とした弱肉強食の価値観・植民地支配のシステムのことでしたが、それらに抗いながら、人間の解放を求めて共に生きていこうという姿勢に対し、「そんなことよりも、霊的な救いを実感しよう」と幕を引いてしまうこととなります。まさに実際に生きる時間や状態に対するアパシー(無関心・無感覚)が生まれてしまうことになります。
 ヨハネの手紙が書かれた時代は、ローマによる「反抗分子の殲滅・迫害」の厳しい時代でした。キリスト者はまだまだほんとうに少数者でしたし、知られるとただではすまない立場でもありました。ですから、信仰の仕方にしても実際の交わりや、主イエスに倣う生き方よりも、自分の観念の中で栄光を満喫したくなる状況だったとも思えます。そうした事情の中にあって、著者ヨハネは、イエスの十字架の死という事実を決して軽んじてはならないことを伝えています。主イエスの死は、確かに人間の罪、私自身の罪と深く関わるものだけれども、そしてその赦しや解放に深く結びつくものだけれども、単に贖いの犠牲の儀式のように天からもたらされた天上の業ではないのだ。イエスは、たしかに肉体と取られ、しかもスーパーマンとしてではなく、打たれれば痛いひとりの人間として、打ち倒れされた人の痛みを悲しみ、人間を虫けらのように踏み潰そうとする力に怒り、神の支配を操ろうとする宗教家たちにもがまんができず、闘いを挑んで行かれたのだ。その結果として、彼は政治犯に対する見せしめの刑としての十字架で殺されていった。そのようなイエスの生の中に現されていた「人間のかくも痛みを背負いながら生きて行かざるをえない現実への慈しみと、解放のまなざし」こそが、今なお私たちの間で想起されなくてはならないのだ、と。
 そして、それゆえに、信仰共同体としての自分たちもまた、生きる事実、重荷を負わされながら生きる現実の中から、互いに交わり、互いを結びあって歩んで行くべきであることを伝えたのでした。
交わりをやめないでいきたいと思います。まだまだ交わっていないとわからないことだらけなのです。交わっていくことで私たちは私たちの弱さを知らされます。そのことが人間を受けとめる共同体には大事なのだろうと思います。わたしたちの弱さや足りなさ、痛みや嘆きを伝え合っていたいと思います。理不尽なことに憤慨することも私たちの間では大切にしていきたいと思います。そして自分が経験した失敗のつらさを通して、誰かを守っていく大胆な力を生み出していきたいと思います。

主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱いときにこそ強いからです。二コリント12:9-10

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