マルコ福音書 14 章 10-11,18-26 節
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。(マルコ 14:22)
過越の祭・除酵祭一日目の夜。主イエスは弟子たちと共に、最後の食卓を囲みました。彼にとって、地上での最後の食事、最後の食卓です。ただし、イエスだけがそれを知っていました。彼にとっては、大事な食卓でした。間もなく自らの身体は裂かれ、血を流して息絶える。けれどもその命は弟子たち一人一人の新しい命となり、弟子たちの新たな原点となり、また生命力(希望)の源となっていく。そのことを刻みつけるための決定的な食事だったのです。
通常、「血を分けた間柄」と言うとき、それは切っても切れない絆を意味します。「血の通った言葉」とか「血の通った関係」というとき、それは共感といたわりを伴う深い交わりのことを意味します。切れない絆、深く理解しあう交わり、それを弟子たちに残していきたい。血を分け、血の通った食卓を囲んで別れの時としたい。命を分け合い、命を食べるような、「命のふれあう食卓」を刻みたい。イエスが弟子たちのために用意し、意味づけた食事は、その後「主を記念する食卓」として歴史の中で受け継がれてきました。今なお主イエスは、多くの人々を、この食卓に招き、血を分け、血の通った絆、深い交わりの食事を与え続けてくださっているのです。
イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちに言われます。「取りなさい。わたしの体である」と。一つの杯にぶどう酒を満たし「これは多くの人のために流される私の血、契約の血だ」といって杯を回されました。イエスだけが知っていた事実がありました。ですからイエスだけが、込めることができた意味が、それにはありました。弟子たちには、まだ解らなくても、イエスが生命を込めた意味がありました。弟子たちは、翌日の十字架と三日後の復活の経験を経て、この最後の食卓の意味がどれほど濃密で大切なものであったかを知りました。裂かれたパンと注がれた葡萄酒に、人間の背任と残酷が固められており、同時にイエスの赦しと愛が絞られていたことを知りました。不信と裏切りの火種を既に灯していた弟子たちのために、愛し抜くしるしとして、招き続けるしるしとして、パンを裂き杯を回したイエスの信実を見たのでした。
この夜の「食卓の意味」を弟子たちは「新たな原点」にしました。あの夜の自分たちの無知、不信、高慢、背信を「人間の原点」にしました。にもかかわらず、設けられたイエスの食卓の意味、それを「教会の原点」にして生きていったのでした。【吉髙 叶】