ダニエル書6 章19~24 節
ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。(ダニエル6:24)
『ダニエル書』はバビロニア捕囚時代(B.C.586-)を舞台にした物語ですが、実際に記されたのはB.C.167 年の「マカベア戦争」時代です。マカベア戦争は当時ユダヤを支配していたセレウコス朝シリア(アンティオコスⅣ世)の征服支配のやり方、つまりユダヤの神殿祭儀の停止、神殿の陵辱、日常の礼拝の禁止などの宗教弾圧に対して、生存を賭けてユダヤの人々が起こした反乱戦争です。多くの犠牲者を出し、また国土を荒らしながらも戦ってきた(いく)意義が『ダニエル書』執筆の動機にこめられています。ですから、『ダニエル書』に登場するバビロニアの王たちの背後にアンティオコスⅣ世を見ていると言えます。また、同時にバビロニア捕囚以前も捕囚後も、どの時代にあっても近隣諸国に征服され続けて来たイスラエル・ユダにとっての、「大国の王」に関する総括的な表象だとも言えます。「この世の征服者は常にどのようにイスラエル・ユダに接してくるか。そうだとしても、我々はどう生きるべきなのか」という「生の態度」をダニエルたちの姿にこめているわけです。
『ダニエル書』3 章は、ダニエルの3 人の友人たちが「金の像を拝め」と命じたネブカドネツァル王の命令に従わず「燃えさかる炉」の中に投じられながらも無傷で出てくる物語。そして6 章は、ダレイオス王が発令した「祈祷禁止令」に背いて神に祈り続けていたことをダニエルが咎められ、「獅子の穴」に放り込まれながらもこれも無傷で助け出される話で、まったく対を為しています。「対を為している」という点では、ダニエルや友人たちが「処刑の場」から無傷で出てくるやいなや、王が彼らの神に敬服し、向き直って、バビロニア王の命令としてダニエルたちの信仰を保障する政令を全国に公布する点も対を為しています。「イスラエル・ユダは軍事力においては弱小だけれども、知恵においては他の誰(どの国民)よりも勝っている。しかし近隣国から妬まれ、時代の盟主国から支配され、迫害されるのだが、最後にはその支配国も我らの神の前にひれ伏すのだ」という世界観・歴史観が『ダニエル書』には投射されています。
と書くと、まるで自己賛美・自己栄化の物語のようですが、イスラエル・ユダの歴史(信仰の歩み)の実態は、常にその時々の大国の支配に迎合し、ご都合主義的に信仰を歪曲し、神を捨ててきた歴史でしたから、実のところは『ダニエル書』の物語に理想をこめながら、自らの歴史や信仰の事実・現実を自己批判している物語であるとも言えます。【吉髙叶】