イザヤ書50 章4-11 節
疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。(イザ50:4)
【市川八幡キリスト教会60 年の歩みを概観する・その1】
市川八幡キリスト教会の伝道開始は1962 年1 月のことです。前年に開催された日本バプテスト連盟の総会において、連盟直属伝道所を市川市に開所することが決議されたのです。初代の牧師は戸上信義(故人)。既に数年後にブラジル伝道に宣教師として派遣されることが決定していた人で、派遣までの準備の時を兼ねて市川での伝道に抜擢(ばってき)されました。1962 年7 月に家屋二棟つきの土地(現在地)を購入し、一棟を会堂、一棟を牧師館として集会を開始しました。時に、アメリカ南部バプテスト連盟からの多大な支援によって日本全国で「新生(しんせい)運動」が取り組まれており、教会を越えて応援メンバーを送り合い「総動員伝道」が巻き起こっていました。市川にもたくさんの資金と応援が投入され、市川駅から本八幡駅まで楽隊をチャーターしてパレードするほどに華やかな様子だったと聞いています。時代的には、キリスト教ブームの名残(なごり)もあり、高度成長の時代でしたから伝道にも勢いがあり、市川伝道所はわずか1 年半のまさに「あっという間」に人数や財政が増え、1963 年11 月に教会の自給自立(じきゅうじりつ)を宣言する「教会組織」を実現します。
ところが翌月12 月にブラジル出発のために戸上牧師が辞任し、翌春2 代目の江ヶ崎清臣牧師へと引き継(つ)がれます。戸上牧師は、ギアをいきなりトップに入れるような勢いで市川伝道所を発進させましたから、江ヶ崎牧師は改めてこの群れを落ち着かせ、教会の様々な運営を自分たちで担(にな)えるように整える仕事に取り組みました。江ヶ崎牧師の5 年間の在任中には、古い教会家屋の建て替えをおこなったり、少し遅れて伝道が開始された栗ヶ沢教会(松戸市小金原)の母教会として支援する側になったりもしています。
江ヶ崎牧師は1969 年3 月に辞任し、続いて椿八郎牧師が就任します。しかし、時折しも学園紛争のまっただ中で、若者たちが問う「真理問答」は教会をも揺さぶりました。「アジア諸国を経済的に踏みつけながら独(ひと)り日本だけが高度成長を享受(きょうじゅ)しているが、日本の教会は『隣人』をどのように理解しているのか。隣人性を欠いたまま続けられる福音宣教とはいったい何なのか?!」という問いでした。その教会批判は次第に苛烈(かれつ)さを増し、礼拝中に「異議あり!」「ナンセンス!」という怒号(どごう)が飛び交うようになります。その激しさに晒(さら)された初期のメンバーたちが、耐えきれずに次第に教会を去って行くことになります。そして、1970 年頃から事実上の「閉鎖状態」となってしまったのでした。つづく~(吉髙叶)