創世記1 章26 ~ 2 章4 節a
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創1:28)
『創世記』の「原初史」と呼ばれる冒頭部分を読み進めています。バビロニア捕囚という民族的な挫折・崩壊の出来事に直面したユダの民。深い悔恨と再生への希求の中に「神の創造」や「人間の使命」を想い巡らせながらこれらの文書を編集しました。言葉(想い)によって「いのちの世界」を創造される神の御業(みわざ)が壮大なタッチで描かれています。そして創世記1 章26 節からは「人間の創造」です。神はご自身にかたどって人間を造られ、特別に祝福し、あらゆる被造物を従わせ、支配するように命じられたと記します。
古代メソポタミア・エジプト地帯にあって、侵略と戦禍に明け暮れる古代帝国の興亡に翻弄させられ、自らも破綻を経験したユダの民が、こうした「原初史」を描くところには人間の傲慢や暴力支配の虚しさへの反省があったと思われます。「神にかたどって人間がつくられた」と記すところなどには、「バビロニアの神マルドゥク(四つの目と耳をもち、口から火を噴く)などは偶像神にすぎないのだ」との抵抗が込められているとも考えられます。しかし、もともとの謙遜な意図は忘却され、後々の人間はこれら創世記の人間創造の表現をもって、これこそ人間の優越と自然界での君臨・あらゆる被造物への支配的地位の根拠だと曲解してきました。コンスタンティヌス大帝によってローマ帝国の公認宗教とされて以来、支配的な地位についてきたキリスト教は、自らの「支配者性」を前提にして、ヨーロッパという地域枠を乗り越え、全世界を植民地化(教区化)することを「神聖な使命」としました。その結果、あらゆる地域の民族・社会・文化・そして自然環境を略奪し、破壊してきたのです。さらに産業革命を経て技術革新・開発に暴走した近代の歴史にあっても、この人間中心主義、人間の生命世界への支配・君臨を「聖書(キリスト教)が保障している」として、自然破壊の猛火に油を注いできたのです。
いま、人類は自然世界からの告発を受けています。「人間よ、あなたたちは生命界の支配者などではないはずだ。あなたたちはいちばん遅れて造られたもの。わたしたちの存在の上にようやく生きることができるものとして造られたのではないのですか」と。
この夏、東京電力福島第一原発の汚染水が海洋に放出されようとしています。取り除けない放射性物質トリチウム。「希釈すれば適合」という人間側のレトリック(巧言)。自然界はほんとうにそれを受け入れるでしょうか。「抵抗」や「反撃」をしてこないと言えるのでしょうか。この自然界にさらに猛毒を注入しようとする人間に対して。(吉髙叶)