イザヤ書5 章7-24 節
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミシュパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。(イザ5:7)
収穫感謝祭に沸き返るエルサレムの人々のただ中で、突然、預言者イザヤが語り始めた「ぶどう畑の歌」は、上辺ばかりの美しさを装ったユダ社会の腐敗と堕落を厳しく弾劾する内容でした。やがて甘く豊かな実を実らせるようにと、神が苦労し期待を込めてつくった「ぶどう畑」が実らせたものは「すっぱい(異臭を放っている)ぶどう」だったと。この「ぶどう畑の歌」(イザヤ書5 章)のど真ん中には、語呂合わせを巧みに用いた見事な風刺が歌われています。
「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミシュパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」
「裁き」とは公正な司法、公正な政(まつりごと)を意味しています。しかも、イザヤ書の随所に見られるように、社会的な弱者を助け、寄留の人々を迎える社会の形成こそがイザヤの語る「公正」の意味するところです。しかし、ユダ社会はすっかりと一部の都市貴族の権力と金銭欲の故に、政治も行政も司法もが歪んだ社会となっていました。
8 節から23 節には「災いだ(ホーイ)」という断罪のことばに続く6 つの問題が連ねられています。これこそが、詩的に表現された「ぶどうのすっぱさ」の意味することです。
1.(8-10 節)一部の人々による、土地の買い占め、独占的な所有の災い
2.(11-17 節)贅沢と飽食にまみれた都市貴族たちの傲慢・放埒な生活の災い
3.(18-19 節)金銀(むなしいもの)に依存し、マモン(富)を神格化してしまっている災い
4.(20 節)自らの都合のもとに真理(善と悪)を転倒させて平然としている災い
5.(21 節)自らの権勢と繁栄を、知恵・賢さの結果だと自惚れている災い
6.(22-23 節)司法担当者が、権力と贅沢を欲しいままにしている貴族たちと結託してしまい、司法を歪めている災い
その結果、炎がいとも簡単に藁を舐め尽くして燃え上がるように、このユダ社会は焼き尽くされてしまうだろうと結んでいます。
今日の日本社会が、そのまま3000 年前のユダ社会に重なります。古代の権力者と寸分違わぬ今日の日本の権力者の姿。そして司法の姿。「裁き」(公正)の代わりに、嘆きと流血(弱者・貧者の放置死)をもたらしている日本社会の姿が。わたしたちは、この「酸っぱい社会」の中で、それでも農夫(神)の期待を見失わずに歩んで行きたいのです。吉髙叶