ヨハネによる福音書11 章17-27 節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)
人間の「信心」というものは、往々にして何か重大な問題が起こる前の、あるいはそれを避けるための「願掛け」のようなものだと感じている方もおられるのではないでしょうか。「失う前に、失う前なら」「終わる前に、終わる前なら」「死ぬ前に、死ぬ前なら」。そのように人間が考える限界設定の枠組みの中に「神」の力を納めてしまいがちです。その限界点を超えてしまったなら、もはや神であってもどうにもならないと降参し、「ここに及んではもうだめだ」と幕を引いてしまうのではないでしょうか。とりわけ、「死」というものはそれほど人間にとって容赦のない、断固とした幕引きのように思われます。神の業も、神の愛も、神の伴いも、この「死」の一線を超えたらもう力を持たない。それが「いのちの範囲」「ふれあいの範囲」なのだ、と。しかし、ヨハネ福音書は、その「いのちの範囲」や「ふれあいの範囲」の突破の問題と真剣に向かい合っています。イエス・キリストは、わたしたちのそれを打ち破りに来られたのだと言うのです。ヨハネ福音書11 章のエピソード「ラザロの復活」の主眼はそこにあります。
ラザロが死んでしまってから、もう4日も経っています。誰の目にも「もはや無理」なのです。死は決定的なのです。しかし、それでもなお「神のふれあい」はその人に接近していくし、神の愛と業は絶望の帳(とばり)を引き裂くことができるのだと、主イエスは示そうとしておられます。「神の力を、人間の枠組みの中に押し込めることはできない。自分が知っている結末が真の結末ではない。自分が考えている限界が決して限界ではない。
それを人間が勝手に決めてしまってはいけないし、神の愛や神の力を人間が小さくして
しまってはいけないのだ。」そのことをわたしたちが信じることができるようにと、主イエスはラザロの納められた墓の中に入っていきます。
「私は復活であり命である。このことを信じるか。」
キリスト教の葬儀では普通最後に「献花・飾花」をします。その時私は、このイエスの呼びかけを必ず心の中で復唱します。遺影の前で、花で飾られていく棺(ひつぎ)の前で。それは、たとい死んでも、たとい悲しみの場面だとしても、キリストがここに共にいて、命を支え、命と繋がっていてくださり、「わたしが命なのだ。わたしを受けて生き、私を受けて死んだあなたは、今この時も命なのだ」との宣言を聴かせてくださるからです。そして「あなたはこれを信じるか」との深い呼びかけをいただくのです。吉髙叶