創世記33 章1-11 節
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。(創33:4)
ヤコブは、“兄エサウから赦されなければ、先に進めない”ことに、覚悟を決めて川を渡ります。兄との対面が友好的なものになるのか、敵対的なものになるのか、それがわからず、疑心暗鬼を引きずったまま進んで行きます。その態度たるやとても見苦しく無様な姿です。それだけ、ヤコブが抱えてきた悔恨と怖れは深く、激しかったのでしょう。
ところがどうしたことでしょう。兄エサウはヤコブのところに走り寄り、強く抱きしめ接吻したというのです。なんの禍根も無かったかのように兄に抱きしめられ、二人は接吻を交わし、心の底から泣いたのでした。何を赦すとか、何が赦されたかとか、そんなものではもはやなく、ただ、引き裂かれてきたものが結ばれ、苛ませてきた怖れが溶けたのです。ヤコブは、怖れ続けなければならない状態から、この日、解かれたのです。
それにしても、エサウのこれまでに何が起こっていたのでしょう。ヤコブの歩みとその心中を追いかけてきた「聖書」は、そのことについては全く沈黙しています。兄への呵責と恐怖とが、まるでヤコブの独り相撲だったかのように、あっけにとられるほどに「和解の場」が備えられるのです。もっと早く会えれば良かったのに・・・。
そう、今日の世界も、ある人々とある人々とが、自分の中で相手を巨大化し、恐怖心を膨らませて武装を重ね、牽制し合い、和解の手がかりをつかめず、悪循環に陥っています。でも、ふと仲介の助けを得たりして「同席」することで、積年の憎しみが氷塊する事態へと展開することがあります。ヤコブのように、相手に対する疑心を捨てきれないままでも、とにかく直接に出会うことによって開かれる道があるのだと思います。何より、相手への恐怖や対立感情を、子ども達に引き継がせることから守られるのです。
互いの子ども達が対立し続ける「負の連鎖」「負の遺産」を遺さずに済むのです。エサウは、カナンのエドム人の祖とされています。ヤコブ(イスラエル)は、カナンの人々と(相互に同化するのではなく)共存する道があることを、このヤコブ物語は示唆しているのではないでしょうか。そのことを読み取らず、武力でパレスチナを専有しようとする今日のイスラエルは、「聖書」を我田引水し、利用していると言わざるを得ません。
ヤコブの「土地取得」の正当化物語としてでなく、和解と共存への招きの物語として「ヤコブ物語」を読み直してみることの大切さを感じています。(吉高叶)