創世記35章1-11節
さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。(創35:3)
「ヤコブ物語」の終結部分を迎えました。いったいこの人生物語は、読者に何を伝えたいのでしょう。彼は何を受け取ったというのでしょう。ヤコブは生まれながらに出し抜く人物としての予感を持たされていきます。実際に兄につけ込み、母リベカの策略に連座し、叔父の家では巧みな計略で自身の財産を増殖させ、兄と再会する際には算段を張り巡らせていきます。いささか狡猾にすぎるとも言える彼の人生は、それゆえに、常に不安と怖れに取り巻かれていて、次なる謀略を重ねなければならないような不安定なものです。こうした策略まみれのヤコブの人生に、おそらくは「人間の人生」の現実や、もしかすると「人間の歴史」の側面が象徴されているのかもしれません。
「ヤコブ物語」は「名付け」の原因譚物語でもあります。後代に知られていた土地や井戸につけられた名の由来についていくつも記されています。そうしたさまざまな「名付け」の頂点には、ヤコブがなにゆえに「イスラエル」と呼ばれるようになったのかの名付け原因譚があるわけです。おそらくはこれが「ヤコブ物語」の核心です。
しかしその新しい名は、ヤコブの策略に満ちた-それは人間的な懸命なサバイブといっても良いのかもしれませんが-人生の結果として手に入れ得たものではありませんでした。ヤコブがイスラエルと名付けられるのは、彼が自分のそれまでの「出し抜いてきた人生」の道のりを振り返る時に自らを震え上がらせた「恐怖」の極みの中から、赦されることを懇願し、神の助けにしがみつこうとした悶絶と格闘の末に届けられた名前でしたし(28 章)、兄エサウとの和議を経て再びベテルにもどってきたヤコブが、神を礼拝する新生活を定立させようとしていく中で授けられた名前なのです。したがって、「ヤコブ」と「イスラエル」には連続があるのではなく、むしろ断絶があるのです。
ヤコブが欲したもの、ヤコブが掴もうとしたもの。それをヤコブは「神の祝福」と考えてきたのですが、結局は彼を常に新たな不安と計略へ突き落としていくものでしかありませんでした。しかし、イスラエルという名を与えられる人間は、神との向かい合いと他者との共存の恵みを得、遙かな未来の展望に生きる者であることを方向付けられているように感じます。ですから、ガザ攻撃に固執し死者の山を築いている現代のイスラエル国家の姿は、人類的な道義のみならず、聖書からも逸脱していると言えます。吉髙叶