2024年10月20日礼拝「わたしを懲らしめてください」

エレミヤ書10 章17-24 節

主よ、わたしを懲らしめてください。しかし、正しい裁きによって。(エレミヤ10:24)

預言者エレミヤはユダ国の人々に向かって滅びの予告を伝えます。自分の民に向けて痛烈で辛辣な言葉を語る。預言者とはかくも過酷な仕事です。彼は、裁かれ滅ぼされてしまおうとしているユダ国の立場に立って次のように語ります。「主よ、わたしを懲らしめてください、しかし、正しい裁きによって」と(エレミヤ10:24)。普通ならば「主よ、わたしを懲らしめないでください」とか「主よ、わたしを見逃してください」と語りたくなる場面ですが「わたしを懲らしめてください、しかし、正しい裁きによって」と。「正しい裁き・justice」まさしく「正義」が明らかになること、「正義」が行われることが預言者の主眼なのであり、また預言者が語らねばならない事柄の中心なのです。
「○○してください」「○○になりますように」。祈りは人間のさまざまな必要から神に向けられます。人間の切実で真剣な求めそのものは決して間違いではないのです。けれども、わたしたちが忘れてはならないこと(でも忘れがちなこと)は、エレミヤの言葉にあるように「時として、わたしは懲らしめられなければならないのかも知れない」ということです。「懲らしめられる」とはいささか不穏な物言いですが、願いや要求を起こす自己の吟味が同時に求められているということでしょう。叶えられない方が良い求めや叶えられてはならない要求というものも中にはあるのです。神の義(神の心)と無関係に、人間の要求が無制限に達成されて良いかのように人間に思い込ませてしまう「仕掛け」のことを聖書では「偶像」と呼び、それに魅入られてしまう生き方を厳に戒めています。
不義や不正、悪や歪みというものは、やはり正されなければならず、正義が明らかにならなければならないのです。「平和」や「安寧」は誰もが求める状態ですが、自分にとっての「平和・安寧」が他者への抑圧と表裏をなしている場合があり、その場合、「平和」の以前に「正義」が明らかにならねばならないのですが、人間は「神よ、あなたの正義がなりますように」「わたしが懲らしめられなければならないなら、そうしてください」とはなかなか祈れないものです。エレミヤが預言活動をした時代、ユダ国は「神の正しい裁きのもとで懲らしめられなければならない」状態だったということです。そして、その預言は、いま、ガザに向けて無差別殺戮を続ける現代のイスラエルと、あの不正義を見て見ぬふりする世界に向けても語られています。「主よ、懲らしめてください」と。吉髙叶

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