2024年6月2日礼拝「慰めの流れ」

コリントの信徒への手紙二 1 章3 節-11 節

わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にいる人々を慰めることができます。(二コリント1:4)

わたしは近年、教会の存在意味の中核に「悲しみの共同体」としての姿があるのではないかと感じています。戦争・紛争による人間の無惨な死。大規模災害による一瞬の崩壊。未知のウイルスの拡散がもたらした人生の喪失。格差がもたらす経済的困窮や社会的な生き辛さ。こんなに人々が悲しみを抱えている時代に、教会は悲しみを分かちあい、共に祈り、どうにか支え合って生きていこうとする「人々の群れ」でありたいと願っているからです。そして、そのような「悲しみの共同体」は、それゆえに「慰めの共同体」としての性格を与えられていくのでもあります。
慰めは付与したりされたりするものではなく、一方方向のみに流れません。慰めは相互に作用し、また循環します。共に居ようとし、共に居てもらおうとする両者の間で、湧き水のように湧き、そして更に誰かのところに流れていきます。慰めの流れに身を浸すことがゆるされるなら、人生はとても幸いです。
98 歳になった義父の家の壁に貼られた一片の詩を読む度に、「慰めの受け皿」としての人間のいつわらざる本質を描いてくれているようで、慰められるのです。吉髙 叶

「幸いの歌」聖フランシスコ兄弟の家
わたしのよろける足どりと、ふるえる手を理解してくれる人は幸いです
わたしの耳が、ひとのいう言葉を聞き取るためには、大きな努力が必要であることをわかってくれる人は幸いです
わたしの目はうすくなり、わたしの行動は鈍(のろ)いということを、善意のうちにわかってくれる人は幸いです
わたしがコーヒーをこぼしても、かわりない平静な顔をしてくれる人は幸いです
しばらく立ちどまって、明るくほほ笑みながらおしゃべりをしてくれる人は幸いです
「今日はその話を二度も聞きましたよ」と、決して言わない人は幸いです
楽しかった昔を、とりもどす方法を知っている人は幸いです
わたしが愛されており、決してひとりぼっちでないことを教えてくれる人は幸いです
わたしには十字架を担う力がないことを、わかってくれる人は幸いです
愛情ふかく、人生の最後の旅路の日々を慰めてくれる人は幸いです

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