2024年7月14日礼拝「軽んじたもの、重んじたもの」

創世記25 章27-34 節

エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の特権を軽んじた。(創25:34b)

イスラエルによる残忍な無差別空爆が続いています。先週も、ガザ南部の空爆によって学校が爆撃され、30 名近い子どもたちが命を奪われました。パレスチナの人々は、1948
年のイスラエル国家設立によって生じてきた惨事を「ナクバ」と言い表しますが、いま、パレスチナ有史以来、最大のナクバが襲いかかっています。シオニストたちの野望、すなわちパレスチナを完全に占領し、イスラエル国を「完成」させるという独善のために、もはやなりふりかまわず、人道を無視し猛進しています。どうして、こんなことができるのでしょうか。正直言って、わたしはいま「イスラエル」と聞くだけで反吐が出そうなのです。でも、そんなタイミングで、創世記の「ヤコブ物語」を読むことになってしまって、どうしたらいいのかと苦悶する日々です。『創世記』に記されている、ヤコブを含む族長たちの物語は、「土地取得伝承の物語」だとも言えます。その族長たちの中でも、ヤコブこそが、神によってその名を「イスラエル」と改名するように命じられた人物すから、まさしく、反吐が出そうな「イスラエルその人」の人生の物語を読んでいくわけです。なんとも気が進まないことであります。
ただ、『創世記』を最終的にまとめていったバビロニア捕囚期(以降)の編集者たちの現実はというと、北王国の滅亡と民の離散、南王国の滅亡と民の捕囚、と、共同体の場も体も破壊され、熔解してしまった状態にありました。故郷からはるかに離れたバビロンに寄留し、世代が移っていく。民族的・宗教的な「アイデンティティー」の喪失に怯えながら、なんとかそれに抗い、何かを保とうとする。そうした危機感と渇望の中に編集作業は行われたと思えます。おそらく、そこには「土地を奪還する」とか「ふたたびパレスチナを取り戻す」などという政治的スローガンはなく、たとえ寄留の民、移民の民であっても、失ってはならないものがあることを憶えていこうとした営みでだったはずです。軽んじられている自分たちだが、それでも何を重んじて生きるのかを問うたのです。それなのに、その寄留者性を捨象し、逆に「旧約聖書」の伝承を字面を根拠にして、「神の約束・神の賜物」だなどと言って最新鋭戦闘機で空爆をすることなど狂気の沙汰もはなはだしいことです。でもそんな狂気が現実になっている中で、ヤコブ物語を読もうとするならどう読むか。聖書テキストの「読み方」がとても問われるところです。吉髙叶

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