創世記28 章10-22 節
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。(創28:15)
ヤコブは実の兄を出し抜いて祝福をもぎ取りました。それほど、長兄のみが受け継ぐとされていた「祝福」が欲しかったのです。その願望は果たされ、兄エサウに代わってヤコブは父から「祝福の祈り」を受け取りました。次男坊が長男に化けていることを見破れず、不本意にもヤコブに祝福の祈りをしてしまったことに気づいた父イサクでしたが、その本人でさえも、もう取り消したり、やり直したりできないようなものが、神の前での「祝福」の言葉なのだと言うのです。『創世記』の「族長物語」はそのように「祝福」の継承についての番狂わせが起きたことを描いています。そしてこの「番狂わせ」こそがヤコブ物語の醍醐味であり、焦点の一つでもあります。「族長物語」はヤコブ物語を通して、「祝福の系譜」とか「信仰の継承」というものは、必ずしも人間が定めたりはできないし、人間が想定する「順当なライン」などで動くものではないことを教えています。当時の人間社会の伝統も、父親の長男への熱烈な愛着も、「祝福」を渡したり、受け取ったりすることの保証とはならないのです。
ただし、「祝福」の中味については、まだ留保が必要です。「祝福」を受けた人は、なるほどこの人は祝福を受けたのだと感じてしまうような、たとえば、富と名声を手に入れたとか、人生の成功者になったとか、安寧・安定を享受したとか、そういう絵に描いたような「幸福者」のことではないようです。ヤコブの場合、「祝福」を受け取った代償は思いのほか大きく厳しいものでした。兄エサウの恨みと怒りを買い、ヤコブは居場所を失います。彼のことを慮(おもんばか)る母リベカの助言によって、母の故郷・ハランに向かって逃げ出すのです。未知なるハランへの旅、まさしく波乱(ハラン)に満ちた人生が始まるのです。
不安で孤独な逃亡の旅。住み慣れたベエルシェバから直線距離にして80km も離れたルヅまで来てへたり込んだ「ある夜」のこと。野宿を強いられ、石を枕に横たわった浅い眠りの中に、彼は夢を見ます。天と自分の場所とを結ぶ梯子が架かっていて、そこを天使たちが昇り降りしている夢です。それは、果たして何の象徴なのでしょうか。
今朝は、人生にとって「石の枕」の意味するものと、この夢を通して彼が導かれた「神が共にいる」自己の認識について思い巡らせみたいと思います。安寧・安住の中にではなく、危機と孤独の旅の中で出会った「ヤコブの神経験」とも言える出来事について。吉髙叶