マタイによる福音書5 章43-48 節
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)
人々の間では「隣人を愛し、敵を憎め」という口伝えが広まっていました。旧約の律法には「敵を憎め」という教えはなく、狭められた隣人愛が口から口へ広まったのです。この口伝は、人間の自我が持つ傾向を反映しています。マタイ福音書では、この口伝えだけでなく、その背後にある人間の自我が問題とされます。人々は疑うことなく、隣人を愛し、敵を憎めという教えを聞いていました。イエス様はこのことを取り上げます。
レビ記11 章では、蛇と似た生き物が忌むべきとされています。蛇は蛇同士で絡まり合い、群がります。狭められた隣人との間で群れる自我と重なります。蛇は咀嚼をせず、丸飲みする習性があります。分別なく物事を受け入れるのは自我の特徴です。聖書のことばと人の言葉を区別せず、誤った教えを神の言葉として取り込むのです。自分は律法を守っていると満足しますが、実際には神の言葉を誤って解釈しているのです。律法の曲解に留まり続けることは、永遠の死に至ります。律法全体は「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という隣人愛に集約されるからです。これは隣人や敵という区別はなく、全ての人を愛するということです。ですからイエス様は人々の偽善に向かって挑戦します。自分を愛してくれる人を愛しても、何の報いもないと指摘し、取税人や異邦人の例を挙げて、人々の偽善を暴きました。外面を取り繕っても、水面下では偽善という毒が進行しているのです。偽善者は滅びを免れないことを聖書は教えています。
本当の隣人愛とは、敵をも愛することだとイエス様は明かします。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることが求められています。これは狭い意味での隣人愛とは全く異なり、偽善が働く余地がありません。行動を越えた、傷つくことを恐れない愛です。
隣人愛は、まず自分自身を愛することから始まります。逆説的ですが、自分に死に、自我と決別することを経て、本当の隣人愛が備わるのです。傷だらけの愛で敵をも隣人とし、隣人を自分自身のように愛します。あなたが天の父のこどもになるためなのです。敵を愛する愛の源は、神のご性質にあります。そして父のこどもは敵をも隣人とし、分け隔てのない愛で愛するのです。本当の隣人愛は、敵をも愛するその人の品格に宿ります。品性、品格となった愛は何ものにも奪われることがありません。敵を愛するハートは永遠に生きます。ですから、一生をかけて取り組む甲斐のあるチャレンジが、敵をも含む隣人愛の教えなのです。林唯