2025年3月9日礼拝「遠かったぶどう園」

マタイによる福音書20 章1-16 節

彼らは、「誰も雇ってくれないのです」と言った。主人は彼らに「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。(マタイ20:7)

「先の者と後の者が逆転する」「聖なる者と『不浄』なる者が逆転する」。たとえ話を含むイエスの言説には、この種・この類いのものがいくつもみられます。もちろん、「先の者」や「聖なる者」が、ユダヤ教支配層を意識していることは一目瞭然です。それが、あまりにも明白だったからこそ、イエスはユダヤ教指導者たちから憎まれ、十字架刑に追い込まれたのですから。しかし、イエスの足下で話を聞いていた「神の国からの閉め出し宣言」を受けてきた人々にとっては、胸の空(す)く思いだったことでしょう。
朝一番に雇われた労働者にも、夕方になって雇われた労働者にも、同じ給金を払ったぶどう園の主人。「神の国はこの人のようなものだ」とイエスは言います。朝一番に雇われた時、その人はどんなに嬉しく、感謝にあふれ、張り合いを感じたことでしょう。しかし夕方には、その人は「怒りの人」になっていました。朝、喜んだ時の状況・条件は何も変わっていないのに、自分より「劣った」人間が自分と同じ扱いをされていることに怒ったのです。人間の歪んだ怒りやねたみの根を黙想させられるテキストですし、人間の価値基準を超えた神の憐れみの不思議さを受けとめることへと導かれる物語です。
ただ、今日は、「雇われる-あぶれる」という明暗について、現実の社会を見据えて考えてみたいと思います。この社会には、明らかにさまざまな格差があり、激しい貧富の差があります。障がいや国籍による差別もあります。経済的、社会的、立場的に優位な人々は、その社会の「常識」や「普通」をつくります。その「普通」を背景に出来る人たちは、何事にアクセスするにしてもスムーズで、何事の中でも用いられ、携わることができ、そうした「先にアクセスできた人たち」によって、さらに次の「普通」が形成されます。その影で、常に、後になってようやく雇われる人たちや、いつになっても雇われない人たちという存在が、この社会の中にいます。この社会という「ぶどう園」は「勝ち組による循環」で動いています。ぶどう園の外には可視化されないたくさんの人々の存在があります。ようやく、やっとその人の言葉と声が社会に届けられ始めた人たちがいます。自分はずっとここにいたのに、ずっと声を出していたのに。「誰も雇ってくれませんでした・・・」。イエスの語る「ぶどう園の主人」は、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言います。「神の国は、こんな主人のようなものだ」とイエスは言うのです。吉髙叶

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