2025年11月30日礼拝「出会いと共感の宣教」

使徒言行録20 章17-24 節

自分を全く取るに足らない者と思い、涙を流しながら・・・試練に遭いながらも主にお仕えしてきました。(使徒20:19)

もともと「グローバリズム」は、国を超えて地球全体を一つの共同体として捉える「地球主義」的な概念でした。けれども現実のグローバリズムは、富める国・大企業が世界のどこにでも生産拠点を移し、世界の市場を独占していく「一極化」を意味するようになってしまいました。もはや「グローバル」という言葉に良い印象が持てません。それゆえ、今こそ、「エキュメニカル」という言葉を大事にしていく時ではないでしょうか。
エキュメニカルという概念は、キリスト教界では「超教派」を意味したりしますが、もともとは、オイクーメネ(世界)という語から生まれました。さらに、このオイクーメネの語源になったのがオイコス(家)という語で、「神が創造された共同のいのちの場」を表しています。エコノミー(経済)の「エコ」も、エコロジー(環境)の「エコ」も、このオイコスを語源としていて、つまり経済も環境も、そもそもは「共に生きる場を保全する概念」なのです。エキュメニカル運動も、まさにそのことを目指しています。
本日から「世界バプテスト祈祷週間」が始まります。永らく「海外に宣教師を派遣する活動を支援し祈る運動」として、運動母体の米国はもちろんのこと、日本のバプテスト派の教会でも熱心に取り組まれてきました。その運動の熱意の背後には、戦後、米国の海外宣教局(ミッション)からのたくさんの宣教師、多額の宣教師金によって「戦後の教会建設」の恩恵に与ってきた自分たちとして、「これからは受ける側ではなく与える側になろう」と意識改革をし、海外に宣教師を派遣することに情熱を傾け始めたという経緯があります。ただし、往々にしてその宣教・布教活動は、19 世紀型の植民地主義的な感覚、すなわち「持てる者が持たない者に」「知っている側が知らない側に」「進んでいる国が遅れている国に」というような「上から目線」になりがちで、宣教師を送っている地域や国の「歴史や人々の暮らし、人々の幸福の中味」のことよりも、「宣教師を派遣している自分たち」の方に、より多くの関心を持ってしまった事実を否定できません。
日本バプテスト連盟と日本バプテスト女性連合は、かつての「グローバリズム的な宣教姿勢」を改め、「エキュメニカル的な出会いと協働」の運動になるように、と、国外宣教の理念の捉え直しに挑んできました。いまは「過渡期」にあるこの運動が、エキュメニカル的性格をますます身に帯びていけるようにと、わたしは祈っています。吉髙叶

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