2025年4月13日礼拝「この叫びをどこに聞くか」

マタイ福音書27 章32-56 節

イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

パレスチナ(とそこに生きてきた人々)は、永らく奪われ、蹂躙(じゅうりん)され、侮辱され、殺されてきました。入植してきたイスラエル人集団によって、突然襲われ、殴られ、取り囲まれて靴を舐めさせられる屈辱に見舞われてきました。イスラエル兵からいきなり銃で撃たれる光景も日常茶飯事でした。一昨年10 月から始まったイスラエルによる無差別空爆によって、ガザでは3 万人以上もの人々が殺されています。ドローンが映し出すガザの映像は、累々(るいるい)と果てしなく広がる瓦礫の地平です。この「キリング・フィールド」に踏み込み、この「ジェノサイド」を終わらせることを、国際社会はできずにいます。まるでパレスチナは「世界から見捨てられている」かのようです。
十字架に釘づけされ、身もだえするような痛みと苦しみの中、嘲弄(ちょうろう)の限りを浴びせられながら、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。この叫び声は、ガザの中から聞こえてきます。そう、主イエスはまぎれもなく、いま、ガザで、パレスチナの人々と共に、なぶり殺されていく一人として、この叫びを叫んでおられます。また、クーデター軍によって家を村を焼かれ、追い回され、逃げていた場所で大地震に襲われ、瀕死(ひんし)の状態にあるミャンマーの民衆たちの一人として、この叫びを叫んでおられるのです。しかし、このことにこそ、神が誰と共におられる方かの明示があります。キリストは、いまどこにおられるのかの徴(しるし)があります。もっとも不条理で、もっとも低められ、虫けらのように扱われている存在の、絶望的な喘(あえ)ぎと共にイエスは苦しみ、しかもそこから逃げ出すことのできない人となられ、神の御心(みこころ)を仰ぎ求めることしかできない姿をしています。
ヘロデ王の時代に生まれ、生まれた途端、殺害の標的となり、虐殺を逃れて旅をしなければならなかったイエスは、処刑の木に釘打たれ、罵(ののし)りの中で息絶えていきます。戦乱を逃げ惑(まど)う難民の中にイエスはおられ、権力の弾圧を受ける市民の中にイエスはおられ、一掃(いっそう)される名も無き命の中にイエスはおられ、災害に打ちのめされる民衆の中にイエスはおられる。それが神の心=「インマヌエル・神はあなたと共におられる」の焦点なのではないでしょうか。イエス誕生の光は、イエスの死の暗闇と共にあります。全地が暗くなる闇の中に、キリストはおられるのです。それが十字架のイエスです。吉高叶

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