2025年8月24日礼拝「重ねられた今日を生きる」

申命記30 章1-4,11-20 節

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。(申30:15)

『申命記』には、「わたしは今日」「あなたは今日」という言葉が、繰り返し出てきます。特に30 章では、「約束の地」を目前にしたイスラエルの民に対し、モーセが遺言の説教を語りかける場面で、この「今日」が強調されます。本日は、この「今日」という言葉に着目していきます。そこには、幾重にも重ねられた「今日」があるのです。
第一の「今日」は、モーセがモアブの平野で民に語りかけた「今日」です。40 年の荒野の旅路の終わりに、神との契約を更新し、幸いの道を選ぶか、災いの道を選ぶかの決断が迫られた、その「今日」です。しかし、第二の「今日」があります。それは、『申命記』の原型が紀元前7 世紀、南ユダ王国のヨシヤ王の時代に「再発見」された時代です。当時、大国アッシリアの脅威にさらされ、国内には異教の神々への信仰(この世の力への擦り寄り)が蔓延していました。国家存亡の危機の中で、ヨシヤ王は『申命記』の戒めに基づいて神への信仰を回復しようとしたのです。彼にとって、モーセの語る「今日」は、数百年前の「今日」ではなく、まさに、自分たちの民が生きるか死ぬかの選択を迫られている「今日」に語りかけてくる神の言葉だったのです。
さらに時代は下り、南ユダ王国の人々がバビロン捕囚という民族的悲劇を経験した時代の「今日」があります。国を失い、神殿を破壊され、異国の地で暮らす中で、捕囚の民は自らの歴史を振り返り、なぜこのような苦難がもたらされたのかを問い直しました。この時代に生きた「申命記史家」と呼ばれる人々は、過去の歴史資料や伝承を編纂し直し、神の戒めに背いたことこそが滅びの原因であったと結論づけます。そして、過去のモーセの言葉に、「バビロン捕囚」という現実を踏まえた新たな解釈を加えました。彼らにとって、30 章3 節の「主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる」という言葉は、まさにバビロンの地で生きる自分たちに向けられた希望のメッセージとしての「今日」の言葉だったのです。
このように、『申命記』の「今日」は、少なくとも三つの異なる時代の「今日」が、重層的に響き合っています。それぞれの時代の民が、自らの歴史的状況の中で、「今日、今、ここで」という神からの問いを聞いたのです。敗戦から80 年という時を生きる私たちの「今日」にも、幾重にも重なった「今日」があります。そしてわたしたちの「今日」の選択や決断が、これからの時代にとっての大きな分かれ道となるのです。吉髙叶

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