2025年10月19日礼拝「ヨナ的感情をどうするか」

ヨナ書3 章1 節~ 4 章4 節

神は彼ら(ニネベ)の業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(ヨナ3:10)

「聖書は一つの揺るぎない主張(宗教的思想)で貫かれている」と考えるのは誤りです。旧約聖書を見つめるならば、イスラエル・ユダヤを特別に愛し排他的な民族主義(選民思想)を強調しようとする思想と、人種的・民族的な背景に関わりなく全ての人々を抱擁し包括する神の普遍性を示そうとする思想、この二つの異なる思想が交差し、ぶつかりあっています。旧約聖書の「モーセ五書」も「歴史書」も、バビロン捕囚の経験から編纂されていったものですが、捕囚期と捕囚解放後とでは、問題意識もトーンも変化しています。自己崩壊の歴史を徹底的に反省し、神の民のアイデンティティーを再強調する動機で編集された書物が放つトーンと、極端な民族主義に逆戻りしてしまい独善性が強まっていることを戒めようとする動機で記された書物の持つトーンとは、異なっていて当然です。また、動き行く時代や状況の中で登場し、「神のことば」を預かり語った預言者たちの主張やトーンが異なっていくのも当然の成り行きです。どの預言者たちも、神についての排他的理解と包括的理解との間を彷徨うのですが、捕囚後、時間が経てば経つほど、神の普遍性や包括性、つまり、神は凡(すべ)ての人々の神であるという神理解へと導かれていくようになります。『ヨナ書』は、そうした旧約聖書諸文書の最後に記された書物で、神が万民の救いを望まれている「世界の神」であること、この世界は凡てが「神の手の中にある」ことを宣告して「旧約聖書を締めくくる」役割を果たしています。
不倶戴天の敵、暴虐と不正の限りを尽くしたアッシリア帝国でさえも、神の愛の抱擁の中にあり、神の招きの対象であることを明確に印象づけるために、ヨナ書3 章は、手のひらを返したように悔悛するアッシリア(ニネベ)の姿を描きます。信じられないほど即座に、あっさりと悔い改めるアッシリア、〝なんとあっさりやアッシリア〟です。しかし、アッシリアに怨念と憎しみを抱いていた人々の感情の持って行き場が無くなってしまいます。その感情の代表がヨナです。その「ヨナ的感情」をどう処理するか、それが『ヨナ書』の問いかけでもあります。「ヨナ的感情」は、今日も民族対立・紛争を支え、新たに生み出され、実にやっかいなものとして横たわっています。
「『信仰』とは『ヨナ的感情』を助けるものなのか、それともそれを乗り越えさせるものなのか・・・。旧約聖書はその問いを持って締めくくられているのです。吉髙叶

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