マルコによる福音書2 章:23 節~ 3 章6 節
イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。(マルコ3:3)
『マルコによる福音書』の2 章は、ガリラヤ地方におけるイエスとユダヤ宗教指導者たちとの5 つの論争(対立)が連続的に記されています。①四人の友人に運ばれてきた中風の人へのイエスの「罪のゆるし宣言」から始まる論争、②イエスが罪人や徴税人と食事をしている場面での論争、③イエスの弟子たちが断食をしないことをめぐる論争、④安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことをとがめる論争、そして⑤安息日に病を癒やすことの是非をめぐっての論争、です。律法の「理解・受け止め」をめぐって、宗教指導者たちとイエスの「大事にしているものの違い」がどんどん鮮明になり、さらにその「異なり」がイエス憎悪の的となり、最終的にはイエスへの殺意になっていくという、実に緊張感に満ちた流れとなっています。
宗教指導者たちにとって、イエスが「罪人」たちと交わったり、律法どおりに生きていないという次元のことであったなら、いつものように馬鹿にして、「あいつも罪人の仲間だ」と吐き捨てておけば済んだでしょう。しかし、どうしても「イエスを殺さねばならない」との衝動に駆られたのは、まさにイエスが「安息日」に踏み込んで来たからでした。それほどに「安息日」は、ユダヤの宗教体制に巣食う人々の、民衆支配と利権保持システムにとって重要な鍵なのであり、「安息日」のメカニズムが変更されることへの危機感は、彼らにとって相当なものだったわけです。ほんらい神の創造の業を祝い、また出エジプトの贖いを感謝し、神の恵みと恩寵のもとで平安な息(いのちの喜び)を取り戻すための「安息日」が、民衆の統制・支配・管理の機能に変質した「息苦しい日」となっていたのでした。イエスは、「神の恵みと祝福」とかけ離れすぎた「安息日」の姿にどうしても切り込まざるを得なかったのです。たとえ命を賭けることになったとしても。
イエスをどうにかしたい人々は、彼を陥れるために、ある「仕込み」をしました。会堂にわざわざ「手の萎えた病人」を連れてきておいて、イエスがどうするかを見張ったのです。冷徹で非情な罠でした。手の萎えた人は、日頃は罪人呼ばわりされ、人々の交わりに迎えられることなど決して無かったでしょう。それなのに、まるで実験材料のように、こんな風に、こんなことに利用される。まさに「いけにえ」のように・・・。しかし、イエスはこの人を安息日の礼拝堂の真ん中に呼び出しました。「安息日の真ん中はあなただ。あなたが神を賛美することが安息日のほんとうの姿なのだ」と。吉髙叶