2026年2月22日礼拝「山頂の光は暗闇の中へと」

マルコによる福音書9 章2-13 節

雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マル9:7)

『マルコによる福音書』9 章2 節以下には、高い山の頂で光り輝く姿に変貌したイエスを、弟子たちが目撃して大いに興奮する様子が描かれています。イエスを真ん中にして左右にモーセとエリヤが立って親しく語り合っている。まさしくそれは、旧約聖書の「律法」と「預言者」を代表・象徴する人物とイエスとの深い関係、すなわち律法も預言もイエスにおいて成就することを表していました。ペトロはこの光景に圧倒され、またうっとりし、このシチュエーションをそのまま留めておきたくて「三人のための仮小屋を三つ作りましょう」と申し出るのですが、その直後に、「これはわたしの愛する子、これに聞け」との天からの声が響き、もはやモーセとエリヤの姿は消え、イエスに連れられて山を下りてくることになります。まるで夢から覚めて、また日常にもどるように・・・。
このエピソードは、イエスによる、二度の「十字架の受難の予告」に挟まれて配置されています。また8 章11 節でファリサイ人たちが「天からのしるし」をイエスに求めた場面とも関連付けられています。記者マルコは、「山の上の特別な経験」と「山から下りた日常」、「天からのしるし」と「人々からの排斥」、「神の威光を受ける姿」と「十字架に苦しむ姿」をとても大切に対比させているのです。山の上で見た光は、確かに神の栄光でした。しかし主イエスは、そこに留まらずに山を下りて行きます。どこへでしょうか。暗闇の中、十字架へと続く道へです。
記者マルコは、苛烈なローマ帝国からの迫害下を生きる同信の仲間たちに伝えたいのです。「信仰」とは、ただ栄光の体験を求めることでない。むしろ、栄光の主が、苦しみの道を歩まれることに従うことなのだと。「これに聞け」、そう、イエスの言葉に聞こう。この世界の優美だが虚ろな言葉にではなく、力に依拠した言葉ではなく、また知恵を誇る言葉にでもなく、人間の弱さと罪を背負い、共に苦しみ共に歩まれ、十字架に向かい続けてなお語り続けられたイエスの言葉に聞こう。十字架へと向かう言葉にこそ耳を傾けよう。「マルコ福音書」は、読者に、そして私たちに、そう呼びかけているのです。
宗教的体験、人間は時にそれらを求めます。忘我的で陶酔的で霊的な時間・空間を求めてしまうことがあります。それもあながち悪いことではありませんが、大切なのは「山に留まる」ことではなく、「山を下りる」ことです。日常へ、現実へ、困難の中へと遣わされながら、そこに共にいてくださる主イエスを感じて生きることです。吉髙叶

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