2026年3月1日礼拝「解放の代価」

マルコによる福音書10 章32-45 節

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(解放の代価)として自分の命を献げるために来たのである。」(マル10:45)

本日のテキスト「マルコ福音書」10 章32-45 節は、前半と後半の「違和」が甚だしいブロックです。前半(32-34 節)は、イエスによる三度目の受難予告です。しかもこれまでで最も具体的で重々しく苦難が語られます。ところが、それを聞いていながら弟子のヤコブとヨハネが、他の弟子たちに抜け駆けして、「あなたが栄光を受けられたときには自分たちを最重要ポストに就けて欲しい」とイエスに直談判するのです。まったく流れが断絶しています。というか、あきれ果てるほどに彼らは脳天気です。
まさしくこの断絶と違和にこそ、マルコ記者のはっきりとした編集意図があるのです。手前のマルコ9 章の後半には、弟子たちが「自分たちの中で誰が一番偉いか」と論じ合っている様子や、ヨハネが「自分たちのように弟子でもない人物が、先生の名によって癒やしをしていたので止めさせた」と威張っている場面が出てきます。続く10 章前半には、弟子たちがイエスのもとに子どもを連れてこようとした人々を叱った場面もあります。こうした記述との一連の流れを構成しながら、マルコ記者は、弟子たちの甚だしい無理解と勘違いを描いています。弟子たちは、栄光や権威や序列を求める「栄光志向」に捕らわれていて、イエスが見つめている「十字架への道」を最後まで理解することができなかったのだ、と。さらに、こうした弟子たちの「勘違いブロック」の全体が、8章22-26 節の「ベトサイダの盲人の癒やし」と10 章46-52 節の「盲人バルティマイの癒やし」のエピソードに挟まれているのも、「見えているが見えていない。見えていない者が見ていけるものがある」という逆転の構図を印象づける意図があるからです。
マルコ福音書がまとめられた紀元70 年前後には、初代キリスト教会は「第二世代」を生きていて、12 使徒の権威に依拠するエルサレム教会を中心に制度化が進んでいたようです。シリア(もしくはローマ)の異邦世界の中で、激烈な迫害下を生きていたマルコ共同体は、「使徒の権威」を相対化し、十字架に生き抜く共同体の信仰をこの福音書に投入したのでした。「イエスご自身の十字架以外に、自分たちが依拠するべきものは無いのだ」と告白をしているのです。「権威」とは他人を支配する力のことではない。「偉さ」とは他人から仕えられることではない。栄光とは高いところに座することではない。十字架の姿こそが真の権威であり栄光である。これがマルコ福音書の核心なのです。吉髙叶

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