箴言25 章9-22 節
あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ渇いているなら水を飲ませよ。(箴言25:21)
「あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ。」伝道者パウロは、その最晩年に記した『ローマの信徒への手紙』(12 章20-21 節)に、この『箴言』の言葉を引用し、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と語りました。パウロは、以前はキリスト者を激しく弾圧する人間でした。自分の信じる「正義」に立って、意にそぐわない人間を容赦なく迫害する人物でした。しかし、復活のイエスに出会い、十字架のイエスの生の意味を宣べ伝える人となったパウロは、その世界観・人間観が、まるで反転するかのように変えられていきました。それほどに、十字架と復活のイエスとの出会いは、彼にとって大きな出来事でした。
イエスの十字架に架けられるまでの歩みを見つめると、それは敵意と暴力が人間を支配している現実を、まさにその身に受ける歩みでした。身に受けながら、しかし、そうした敵意や暴力が「最後の力」となりはしないことを示す生き方でした。それが「イエスの十字架」の、パウロに、そして世界に与えたインパクトでした。
「ローマ帝国の支配の現実は、あらゆる人間を敵と味方とに分け、敵を悪と呼んで滅ぼそうとする力がみなぎっている。しかし、それは神の世界ではないし、この世の結末ではないのだ。神は、十字架につけられたイエスを復活させることによって、人間の力がこの世界を決定づけはしないことを示されたのだ。」復活のイエスに出会ったパウロは、それゆえに「自分たちは、その力に飲み込まれないで、また同じ力で報いないで、まるで異なる生き方をしよう」と語ったのでした。もちろん、それは、敵意を無視したり、がまんしたりしてやり過ごせ、ということではありません。しかし、敵意を向けられた
からといって、敵意を返すことだけが答えではない。暴力を受けたからといって、暴力だけが世界を変える手段ではない。「敵を愛する」ということは、敵対してくる相手を好きになることではありませんが、「相手の敵意に、自分の生き方のすべてを決めさせない」ことなのです。相手が憎しみを向けてくる時にも、憎しみで生きることを選ばない。相手が報復を求める時にも、報復だけが正義だとは考えない。相手が人を排除しようとする時にも、人間を生かす別の道を探し続ける。それは、相手の力に屈することではなく、相手が支配しようとする世界の論理に、自分は支配されないということです。吉髙叶