ローマの信徒への手紙3 章9-20 節
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(ローマ3:20)
先週からローマの信徒への手紙(ロマ書)を読み始めました。パウロがロマ書を執筆したのは、ローマに生きるユダヤ人クリスチャンたちが気にしている「律法や割礼(かつれい)」の問題や「政治権力との関係」についての自分の理解を、あらかじめ伝えておきたいと考えたからです。今日の箇所では「ユダヤ人の優れた点は、・・・まったく無い」と断言していて、ちょっと驚きます。1 章~ 3 章にかけて、話がいったいどう展開してきたのか、ざっくりと辿(たど)ってみましょう(超要約です)。
【1:18-32】この世界は神の存在の証しや徴(しるし)が満ちあふれていて、神を知ることは誰にでもできるのにもかかわらず、この世の人々はそれを認めず、奔放に生きてしまい、自分たちの気持ちに適う神々をつくって拝んでいます。そこから生まれるものは欲望を満たす想いや行為ばかりであって、この世の人々は、あまりにも深い罪に浴(よく)しています。
【2:1-16】そんな世の人々(非ユダヤ人)たちのことを、あなたたちユダヤ人は裁(さば)いてきました。でも、でもユダヤ人とて実のところ大差は無いのです。ユダヤ人たちは裁きを免(まぬが)れているのではなく、むしろ神はあなたたちユダヤ人こそが悔い改めるのを待っておられるのです。神の裁きは、律法を知る者にも知らない者にも等しく及ぶのです。
【2:17-29】あなたたちは「律法を知っている」と自負しながら、実際には律法を守れてはいません。「律法を知りながら、できない」ことによって、むしろ神の名を汚しています。「割礼を受けている」ことの大切な内実は、律法を守っているということなのですから、ユダヤ人が誇ってきた肉体の割礼などは、もはや形だけのものにすぎないのです。
【3:1-8】ユダヤ人の優(まさ)った点(取り柄)をあえて言うならば、律法や預言を委(ゆだ)ねられてきたということです。でもユダヤ人は結局は神の想いを映すことができませんでした。けれど、だからと言って神がイスラエルに語り続けた想いが無駄だったわけではありません。神の真実は、ユダヤ人が裁かれることを通しても明らかになっていくでしょう。
【3:9-20】わたしたちユダヤ人には、結局のところ優(すぐ)れた点はないと言うのでしょうか。そうです、まったくありません。旧約書の様々な言葉が厳しく記しているように、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが全ての人間は罪人でしかないのです。それが神の前での共なる姿なのです。律法は人間を罪から解放できはしない。律法にできることは、「罪とは何か」を認識し、「自らが罪人であること」を自覚できるように導くことなのです。