2023年5月28日礼拝「悲しみの傍らには聖霊」

ローマの信徒への手紙8 章19-30 節

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、神の霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、代わりに願ってくださるのです。(本田哲郎訳ロマ8:26)

本日はキリスト教の暦(こよみ)でペンテコステ(聖霊降臨日)と呼ばれる日です。イエスが復活してより50 日目に、集まっていた弟子たちに聖霊(神からの霊)が注がれ、力づけられて、「イエスこそキリスト」と伝道し始めて行ったというエピソードを記念する日です。
ところで、聖霊がそうした「力強い転換」を弟子たちにもたらしたという点に強く引っ張られてのことでしょう、聖霊を受ける・イコール「活き活きとする」「不思議な力を得る」「エネルギッシュになる」というイメージに縛られ、聖霊と聖霊の働きをとても誤解した言動がキリスト教界の一部に見られます。集団的な熱狂状態に陥ったり、恍惚状態になって失神したり、異言(いげん)と呼ばれるどの国の言語でもない「音列」を発声したりして、そのような状態に到達することをもって「聖霊体験」だと主張する人々です。でも、それはほんとうでしょうか。
『ローマの信徒への手紙』8 章は、パウロが聖霊の働きについて証ししているところですが、聖霊が人間の苦しみに寄り添い、共に沈み込んだり、いっしょに呻いたりしてくれる存在であると言っています。肉体を有している以上、どうしても抱えてしまう弱さや限界、どうにも抑止できない欲望の誘惑。またそうした肉的な欲望が力を持つことによって悪の力が支配している現実世界。そのような中で、疲れ果てたり、意気消沈したり、生きる道を見失いかけているような、そのような人間を憐れみ、慈しみ、その<低み>にいっしょに沈み込んで呻(うめ)き、こんな「わたし」のことを代わりに祈ってくれている、聖霊の働きとはそのようなものなのだと、パウロは語るのです。また、「聖霊は、万事が益となるように働く」と書かれている部分ですが、本田哲郎神父の訳文は「人に親身に関わるようにしてくださる」となっています。「万事が益」と言われても、「上から指定」のようで、「これが益なのだと承知しなさい」と突っ込まれていく感じですが、苦しみからの解放や待ち望んでいることについて親身になって関わり、その人自身がまごころを込めて他者の願いに関わっていけるように支えていてくれる力、それが聖霊の働きだと感じるとなんだかほっとして肩の荷がおりるようです。パウロが言うとおり、わたしたちはどう祈ったら良いかわからなくなる時があります。祈る気持ちを失ったり、祈る言葉を見失ったりします。失敗したり、衰えたり、悲しみすぎたり、そんな時は、たちどころにそうなってしまいます。でも、その時に、聖霊はわたしたちの傍らにいて、わたしたちを支え、わたしたちのために代わりに願っていてくださるというのです。(吉髙叶)

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