ローマの信徒への手紙12:1-8 節
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ロマ12:1)
上掲した聖句(ロマ12:1)は、『ロマ書』の文脈や時代状況を理解せずに読むとたいへん危険なフレーズです。自分の賜物や時間を精一杯用いて、神の恵みに応えて生きることは人間にとって大切で豊かな歩みだと思います。しかし、「生けるいけにえ」のごとくに自分を賭して、神や教会のために己れを献げるべきなのだなどと読んでしまったらたいへんなことになります。けれども、その「たいへんな」状態・すなわち自己犠牲を強いられたり、財産や人生の時間を度を超して費やせられている状態を、「信仰心」の名の下に美化してしまうような体制や心理を引き起こしている信仰集団も少なからずあります。
パウロが上掲のように語った背景や文脈を理解しましょう。わたしたちからすれば、パウロが生きた時代は古代と言えます。古代世界に存在したありとあらゆる宗教は、その祭儀(礼拝)の中で犠牲(いけにえ)を献げることを常としていました。パウロが永らく心棒してきたユダヤ教祭儀においても、羊や山羊、鳩などの動物を屠って焼き、自己の罪の贖いを神に祈る儀式が祭儀(礼拝)の中心でした。そのような祭儀の励行に加え、割礼と律法遵守を通して神の救いや贖いを身に受けていく、そのような考えや伝統を『ロマ書』の読み手たちは前提としていました。そういうわけですから、パウロは「いけにえ」という概念(用語)を用いて語ってはいますが、言いたいことは「救いのために、犠牲を献げるようなことをもはや止めよう」ということなのです。行いの積み重ねによって救われると考える「律法主義」同様に、それは「神とのとりひき」なのだ、と。しかし、救いはそうした「とりひき」によって得られるものではなく、ただ神の慈しみと恵みによって人に注がれるのであり、その恵みをいただいたわたしたちは、感謝と喜びをもって自らを大切にし、人生を精一杯歩んでいくことによって神を賛美していこうではないか。礼拝(祭儀)とは、自分の歩みを横に置いて犠牲を献げることではなく、神の愛を受け、他者と愛を交わして生きていく「歩みそのもの」なのだから、と語るのです。
ところで、「犠牲・いけにえ」を欲する欲望は決して古代特有のものなのではありません。現代にもはびこっています。本土決戦に備える時間稼ぎのために引き起こされた「沖縄戦」は、まさしく本土⦅大和(やまと)⦆による「いけにえ」でした。そして沖縄を「いけにえ」とする思想は、今日にいたるまで改まることなく、米軍に差し出された「基地の島」「戦争の島」として沖縄県民に犠牲を強いています。ゆるされざる歴史と現実です。(吉髙叶)