コリントの信徒への手紙一8 章7-13 節
知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(コリⅠ 8:1)
コリントはギリシャの大商業都市です。そこには古代オリンポスの神々を祀る神殿や祭所があり、祭儀は習俗・文化となって人々の生活と密接に結びついていたようです。そうした神殿祭儀に供された肉や野菜は、市場に払い下げられ、安価な値段で庶民たちの食材となっていました。その「いったん神殿に供えられた肉を食べて良いかどうか」、その主張をめぐってコリントの教会メンバーたちは対立していたというのです。対立まで起こしてしまうのには、いくつかの要因(伏線)があります。
実は、異邦人伝道(ユダヤ人以外の人々への伝道)について、かつて使徒たち(イエスの任命に由来する弟子たち)とパウロとの間で論争がありました。クリスチャンになるために割礼が必要かどうかを巡る論争です。この論争に決着をつけたのが「エルサレム会議」(使徒言行録15 章)なのですが、会議の決議は次のようなものでした。「異邦人たちがクリスチャンに改宗する際、もはや律法の習得や割礼は必要がないものとする。ただし、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けるように」(使徒言行録15:28-29)というルールを決めて各地に通達を出していたのです。
別の要因もあります。ギリシャの知恵重視の風潮を背景にして、「グノーシス」と呼ばれる熱狂主義(霊的存在となった自分たちは、世や肉体の束縛を超越できているので、この世界の目に見える事象に、もはや何一つ捕らわれてはいない。したがって何をしても自由なのだ、と考える態度)の影響も教会の中に入り込んでいました。この人たちにとっては、食べ物についての制限などは「ナンセンス!」というわけです。
神殿から払い下げられた肉ぐらいしか口にできない庶民たち。肉が食べたければかなり高価でも産地直送の肉をグルメ市場で買える富裕層たち。霊的に超越しているのだからと気にしないでがんがん食べている人たち。さらには、エルサレム会議の通達を守って「食べてはならない」とがんばっている人たち。個々の趣向にまかせたら済むことと思うかもしれませんが、宗教規範的な見地が加わりますので、自分の態度の問題でおさまらず、他人に「べき論」を向けてしまうことになります。「食べるべきではない!」「食べるべきだ!」。クリスチャンになったとはいえ、世俗の町コリントに暮らし、家族・親族・友人・知人たちとの食事もあるわけで、食べ物ひとつのことでも悩みもすれば、対立の原因にもなったのでした。でも、これって、けっこう「あるある話」です。(吉髙叶)