2025年2月2日礼拝「麻痺した関係の癒やし」

マタイによる福音書8 章5-13 節

いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。(マタイ8:11)

マタイによる福音書は「山上の説教」(5-7 章)に続いて、イエスによる癒やしの記事をかためて記します(8-9 章)。イエスの言葉(教えや譬え話・遺言)も、わたしたちを開眼や転換へと導いてくれますが、イエスの業(奇跡や癒し)は、わたしたちの人生に立ちはだかる壁や生きる重荷からの解放の徴となって、わたしたちを勇気づけてくれます。
ところで、イエスの癒しの記事と向かい合う際に心に留めておかねばならないことがあります。それはユダヤ社会では、そもそも「癒やしは罪であった」ということです。どういうことでしょうか? イエスの生きたユダヤ社会は、極端な律法主義が振りかざされ、多くの人々が「罪人呼ばわり」されている時代でした。いわゆる「疾病懲罰説」がはびこっていたのです。人が何らかの重い疾患にかかったり、いわゆる「障がい」を身に負うのは、神の懲罰(本人の、あるいは両親の犯した罪への裁き)であると捉えられていました。その疾病をもたらしているのは「神」ですから、「癒やし」は神の意志への逆らいということになります。触れあってはならず、癒やしてもならないのです。ましてや「安息日」に癒やしを行うなどとんでもない反逆ですし、「異邦人」を癒やすなどは言語道断でした。ともすると、イエスの癒しの記事を読むと、「ここに神の子の特別な力の証明がある」と受け取ってしまいがちなのですが、まずはイエスの癒しにはユダヤ社会における「反社会的なインパクト」があったことと、イエスの十字架は、こうした業や言葉の帰結としてもたらされた処刑としての側面があることを覚えておきましょう。
ガリラヤに駐留していたローマ軍百人隊長が、イエスを知り、心を動かし、イエスのもとに飛び込んで来て訴えるのです。「愛する僕の身体が麻痺して苦しんでいます」と。即座にイエスは「行って、癒やしてあげよう」と言います。異邦人の家に入る罪、そして癒やす罪。そんなこと、ものともしません。むしろ百人隊長があわてて言います。「あなたをわたしの家に迎えることは止しましょう。でも言葉をください。それで十分です」。イエスは、自分と百人隊長との「この交わり」、神のもとでの「この交わり」をたいそう喜び、天の国での交わりの徴となさったのでした。律法理解の壁を越え、民族の隔たりの壁を越え、見なければ信じられない心の壁を越えて、神のもとで触れあい交わる「新しい地平」。今日の世界が癒やされなければならないものが、ここにあります。吉髙叶

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