2025年6月29日礼拝「喜びの日に向かって」

フィリピの信徒への手紙4 章2-9 節

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4-5)

♪いつもよろこび~たえずいのり~すべてのことをかんしゃしよう~♪。子ども達といっしょによく歌う賛美歌です。この歌詞の元となった聖書箇所がフィリピ4 章4 節~ 7節ですが、賛美歌だと楽しく歌えるのに、よく読むとどうも違和感があります。
“主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい”(4:4)。「喜び」を、他人から命令形で語られるのは、違和感どころか反発さえ覚えます。戦時中ならこんな言い方だらけだったのでしょうが、私たちの日常会話でこんな押しつけがましい言い方はしません。でも、教会ではともすると、“イエス・キリストの救いにあずかっているですから、クリスチャンは、いつも笑顔で、感謝に満ちた様子を醸し出していないといけません”という特有の「スタイル」を勧められることが多い(多かった)のも事実です。どんなに苦しいことがあっても、辛い境遇にあっても「喜びなさい」と命じられて、即時的にそうすることができるなら、それはかなり無理をしているか、現実を観念に置き換えてごまかしているのだろうと思います。
そういう現実に観念のベールをかけるような用法はいただけませんが、しかし、現実の過酷な境遇の中から「喜び」や「感謝」を思考する精神的営みについては、決して蔑(ないがし)ろにすることはできないようにも思います。喜ぶことなどとてもできない事実・現実。
自分が喜べるためには、みんなで喜べるようになるためには、この状態がどうならなければならないのだろうか。共に喜べる状況に向かって何を変えていかなければならないのだろうか・・・。「喜びなさい」と、あえて命令形で表現されることがあり得るのだとしたら、そのような「プロセスを伴う思考性」を伴わねばならないのだろうと思います。
ところで、パウロの用法には、必ず「主において」という前提があります。パウロが「主」=イエス・キリストを念頭に置くとき、それは「十字架に捨てられ無にされたキリスト」のことであり、しかし「その生と死の姿を尊ぶ神によってよみがえらされたイエス・キリスト」のことです。このイエスの死と復活のできごとが「ここ」にも重なっている(いく)と信じながら、厳しい現実に向かい合い、その現実の中にある「やがて崩れゆくもの」と「やがて神によって高められるもの」を見通しながら、希望を抱いて生きようとする。そういう歩みのことなのかもしれません。吉髙叶

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