民数記9 章15 節~ 23 節
雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。(民数9:17)
「はやっ!もう届いたの!? コレ、昨日注文した商品なのに!」。ネット通販の商品が驚くほどの速さで届きます。「中3 日で仕上げます」カラー印刷物がすぐにできあがります。スピードが「売り」になっている時代です。「ん~。まだ既読にならない!」「もう2 時間待ってるのにメールの返事が来ない」「ここの回線、ねばってる~、サクサク動かない~」と反応が遅いとイライラするようにもなっています。
「待たない」「待てない」「待たさない」の環境と価値観に自分の感覚が馴染んでしまっています。そう、待てない人間にだんだんとなっているのです。自分で把握し、自分でコントロールする。「時間の世界」も自分の手に届く範囲で組み立てていこうとする。このような過ごし方をしていると「待つこと」の中にある意味や、「待つこと」がもたらしてくれる大事な作用を、知ること無く生きていくことになります。「待っている間」に、人間は振り返ったり膨らんだり仮想したり、といろんなことを心の中で為すのです。「待てなくなること」、これは人間の精神にとって、かなり危険なことだと感じます。
民数記9 章15 節以下には、エジプトを脱出しシナイ半島の荒野に進み出たイスラエルの行動様式が描かれています。行き先はわかりません。神のシンボルと思われる頭上の「雲」が導きます。雲が進めば民も従い、雲が留まれば民も留まり、そこに「掟の天幕」(組み立て式の礼拝の幕屋)を建てるのです。すると雲は天幕の上に降りて来ます。。いつ動き出すかわかりません。翌日の時もありました。何ヶ月も、時には1 年もの間、動かないこともありました。「着いたばかりでまた片付けるのかよ~」「もうこの場所は飽き飽きだ」と人間がどう感じようと願おうと、決めるのは雲です。出発が「いつ」かがわかりませんから、その土地と密接な関係になることもできません。たとえば菜園をつくるとかできないのです。ただし、日々の糧は、毎日空から降ってくる「マナ」で満たすようにと計らわれていました。日々の糧は、天(神)が支えるというのです。吉髙叶