申命記34 章1-12 節
わたしはあなたがそれを目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。(申34:4)
『申命記』は34 章のモーセの死の場面で終わります。ビスガ(ネボ山)の山頂からヨルダン川の西方に広がる「約束の地・カナン」を眺めながら、次世代の民に夢を託し、まるで消えていくように生涯を終えていくモーセの最期が描かれています。
モーセは、ここまで民を先導してきたにもかかわらず、カナンに足を踏み入れることを許されませんでした。「メリバの泉」の事件の際に、彼は杖で二度岩を打って水を湧き出させましたが、その行為を神はよしとなさらず(神を聖としなかった行為だったと叱られ)、それが原因だと記されています(民数記20 章)。あまりに気の毒な話ですが、「モーセへの同情」に思考を止めてしまわず、もう少し『申命記』と対話をしたいと思います。
これらの記述がまとめられた前6 世紀のバビロン捕囚期の人々の視点で見てみましょう。神殿が破壊され、国土カナンを失い、異国で捕囚の身となった事実から省察されていったことは、そもそもイスラエルが目指すべき「約束の地」とは、いわゆる土地(国土・領土)のことではなく、神のもとでの生き方や社会形成の姿のことだったのだということでした。カナン喪失が現実になってしまったのは、イスラエルが、その生き方、すなわち神への徹底的な信頼と戒めへの誠実を失ったからであると総括していくのです。そのような視点から自分たちの歴史を振り返ったときに、モーセを含む過去のすべての歩みは、イスラエルの疑いと背きの歴史であり、約束の地を目指しながら迷走し、約束の地に生きながら堕落していく歴史なのです。偉大なモーセと言えども、その歴史プロセスの登場人物の一人であり、モーセでさえ手中に納めることのできない(到達することのできなかった)ものが「約束の地」であるわけです。現に今、自分たちはそれを失い、バビロン捕囚という苦汁を舐めているのですから。しかし、その「今」を、更なる「旅のプロセス」と理解し直そうとしている、それが「モーセ五書」編纂の視点です。
モーセがカナンに入れなかったことを「神の罰」のように記すこと。それは、イスラエルにとって神格化されがちなモーセさえも神の前に相対化し、モーセでさえ手に入れられなかった「約束の地」の意味を、もう一度見つめ直そうとしている作業なのだと思います。「モーセだけは無垢であり、約束の到達者である」とは記さず、誰もがまだ到達し得てはおらず、「約束の地」への旅は未だにプロセスの中にあるのだ、と。吉髙叶