アモス書9 章11-15 節
その日には、わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃墟を復興して、昔の日のように立て直す。(アモ9:11)
アモスが預言活動をおこなった北イスラエルは、繁栄と謳歌してはいたものの、それは一部の富裕層に独占され、政治も司法も不正義と賄賂にまみれ、宗教は腐敗に満ちていました。それでも人々は、「これは神の祝福の結果だ」と豪語していました。まるで、「今日・この日」の栄華が永遠に続くかのように高ぶっていたのです。アモスは、そのような北イスラエルの民に「その日」の出来事を突きつけます。裁きの日、崩壊の日としての「その日」です。アモスの預言の終盤(8 章)では、繰り返し「その日」(バヨーム・ハフー)のことが語られるようになります(8:3/8:9/8:11/8:13)。「その日」の裁きの厳しさが、いかに容赦ない過酷なものであるかをアモスは民に突きつけていくのです。これがアモス預言の「その日」の厳しい中味です。
ところで、本日のテキスト9 章11 節以下に表れる「その日」は、まったく逆の姿をしています。復興の日、豊作の日、平和の日としての「その日」の姿です。これはいったいどういうことでしょうか。北イスラエルが繁栄と乱れを謳歌している目前に、滅びの「その日」を突きつけておいて、その直後に、ふたたび復興される「その日」のことを語っているのだとすれば、アモスの預言はとても支離滅裂で、警告としての迫力を持ち得ないどころか、回りくどい祝福にさえなってしまうのではないでしょうか。
私は、「9 章11-15 節はバビロニアによる南ユダ国壊滅とバビロニア捕囚を経験した後の時代に加筆されたものだ」という学説に賛成します。すると、この「その日」を聞かされている民たちは、荒れ果てた国土を抱え、産物の実りにまだ遠く手が届かず、多くの同胞が離散してしまった現実に打ちひしがれているわけです。しかし、その中に語られていく「その日」の響きは、裁きの厳しさではなく、慰めと励ましに満ちた希望への招きなのです。「その日」は聞く者たちに応じた意味を持ちます。聖書の幾人もの預言者も、主イエスもパウロも、「その日」を語ります。裁きを意味したり、回復を意味したり、救いを意味したり、終末を意味したりしています。けれども、それらのどの「その日」も、「その日」を語りながら問いかけているのは、聞く者の「この日」のことなのです。
誰の、どの「この日」も、神の正義(ミシュパート)と恵み(ツェダカー)の前で、生き方が問われているし、神の御心に方向付けられているのだということです。吉髙叶