4月10日の礼拝は、受難週礼拝。
イエス・キリストの受難の意味を、深く問いながらの礼拝でした。
特に昨年から続くミャンマーの悲劇に、ウクライナ危機が加わり、驚きと悲しみの中に過ごす私たちです。
「わが神、なにゆえに」と叫ばれたイエスの言葉が、いまなお、あらゆる場面で叫ばれている言葉であること。
それゆえに、イエスもまた、その嘆きと喘ぎのただ中に共におられることを信じさせられました。
礼拝の中で、吉高牧師が弾かれたバッハのオルガンコラールを聴きながら、黙想の時を持ちました。
4月10日の礼拝は、受難週礼拝。
イエス・キリストの受難の意味を、深く問いながらの礼拝でした。
特に昨年から続くミャンマーの悲劇に、ウクライナ危機が加わり、驚きと悲しみの中に過ごす私たちです。
「わが神、なにゆえに」と叫ばれたイエスの言葉が、いまなお、あらゆる場面で叫ばれている言葉であること。
それゆえに、イエスもまた、その嘆きと喘ぎのただ中に共におられることを信じさせられました。
礼拝の中で、吉高牧師が弾かれたバッハのオルガンコラールを聴きながら、黙想の時を持ちました。