2002年5月8日 召天者記念礼拝「愛と祝福にはさまれて」

ヨハネの黙示録21 章1-7 節

「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。」(ヨハネ黙21:6)

わたしたちは、普段生きていて「自分の人生の初め」に思いを寄せることは滅多にありません。「初め」ということを考えなくても、現在(いま)を生きることはできますから。むしろ現在(いま)のことだけだけを気にして生きていることの方が楽なのかもしれません。しかし、たとえそうだとしても、人間は、ふとしたときに、自分の存在の意味性について、どうしても知りたいと思うことがあります。それが、「わたしの命の初め」に思いを寄せるということです。
人間の文明や科学の探求というものは、ある意味で「世界の初め」や「生物の初め」など、「物事の成り立ち」について追求するものだとも言えます。「初め」はどうだったのかを探って人類は宇宙に出かけていきます。「初め」は何によって構成されているのかを探ってミクロの世界、遺伝子の世界に潜り込んでいきます。しかし、私たち人類は、「遂に生命の初めを見つけた」と言うことができたでしょうか。また、そもそも科学的な探求の成果を聞いて、自分が存在することの意味を聞くことができるものでしょうか。「初めにビッグバンがあった。」「はじめにミトコンドリアがあった。」「初めにDNA 法則があった」そんな風に説明されて、「人生を生きる意味がやっとはっきりしました」なんてことがあるでしょうか。
目を身近なところに向けてみましょう。私たちは、たくさんの大切なものに囲まれて日々を生きています。しかし、どれほど大切なものだとしても、それらの中に、「わたしの初め」に値(あたい)するものがあるでしょうか。「初めに会社があった」「初めに学校があった」「初めに家族があった」「初めに恋人があった」。どうでしょう。それらが自分の人生の「初め」だと説明されてもしっくりこないのです。会社や仕事、勉強やクラブに一生懸命になるのは素敵なことですが、それらは、決して、わたしの命の根源ではないのです。
聖書は、「初めに言(ことば)があった」と語ります。「あなたの生命の根源にあったもの、それは『言』(ことば)なのだ」と言うのです。そしてこの「言」(ことば)とは、神の「愛と祝福の想い」のことなのです。「神の愛と祝福が、あなたの存在している初めの理由なのです」と聖書は教えてくれています。私たちは、決して科学反応で生まれたのではありません。何の意味もなく、たまたま偶然に存在しているのでもないのです。私たち全ての人は、自分の命の初め(=根源)に、神の「愛と祝福の想い」を頂いているのです。【吉髙叶】

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