2021年7月4日礼拝「御言葉を受け入れる」

ヤコブの手紙1章19-27節

 心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブの手紙1章21節)

新約聖書には、27の文書が収められていて、それらはいくつかのジャンルに分類されます。イエスの歩みや言葉として編集された「福音書」。初期の弟子たちの伝道の歩みをリポートした「使徒言行録」。各地の初代教会の人々に宛てて書かれた「手紙」。預言(予言)的な内容が象徴的な文体で書かれた「黙示録」などです。

福音書は、キリストであるイエスの言葉と業を通して、神の想いが伝えられています。人間への掛け値なしの神の愛、神の国を惜しみなくくださるという約束、労苦多き人生へのいたわりと祝福、そして救いが、イエスを通して示されていきます。人間からすると、ただ受け止めていけば良い「喜びの知らせ」、まさに「福音」です。

一方、「手紙」は、そのような福音を浴びた者たちが、神の愛に応えて生きる「生き方」を呼びかけ合っている文書です。それは人間形成や人生形成のテーマです。それだけでなく、関係形成や共同体形成のテーマでもあります。その際、その「手紙」を読んでいた人々がさらされていた試練(この世からの無理解や迫害など)や誘惑(都合の良いイエス理解や身勝手な解釈)のことを念頭に置いて、それらを諫めたり戒めたり、時には叱ったりしながら記されています。中には激しい論争や、論敵に対する厳しい批判も含まれていたりしますが、読んでいた当時の人々の「試練」や「誘惑」がどのようなものであったか、ということを知ることによって、「手紙」の内容(なぜそんなことを書いたのか、なにが言いたいのか)ということが理解できるようになり、自分にとっても身近なものになってきます。何故なら試練や誘惑は、今を生きる私たちの問題でもあるからです。

ヤコブの手紙は、信仰を観念的な領域で消化してしまって、「生き方」と結びつけることなく済ませてしまおうとする当時の信仰者たちの風潮に対して問題提起をしている文書です。ですから、パウロが「救われるためには、行い(人間の業)は必要ない。ただイエス・キリストの救いを信じるだけでいいのだ」と語ったトーンと逆のことを言っているように聞こえます。たしかにヤコブ書は「行い」の大切さを強調し、「行いを伴わない信仰のむなしさ」を力説します。しかし、ヤコブとて「救われるために行いが必要」とは語ってはいません。キリストによって救われた者が、救われた者として、地上の時間を生きる上で、どのような人間形成や人生形成、また共同体の関係づくりを為すべきだろうか、それを心に留めて生きていこうではないかと仲間たちに呼びかけているのです。(吉髙叶)

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