2021年6月27日礼拝「断・受・専・委」

ルカによる福音書 5章1-6節

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(ルカによる福音書5章5節)

神学校週間を迎えました。連盟の協力伝道の大きな柱の一つ、「伝道者養成」に深く関わる神学校と神学生(献身者)方をおぼえて、祈りを結び合わせていく週間です。
牧師を特別な聖職者とは位置づけないバプテストにとっては、献身とは総ての信徒に呼びかけられている招きでもあります。様々な姿でバプテスト信徒は献身して生きていたいと思います。しかし、そうした様々な献身の中で「教会の牧師・主事」として特有の学びを志す人たちの多くは、神学校に進み、学びます。神学校に進み出ることによって、また神学校で学ぶことによって、教会に仕え、宣教に仕える大切な「たたずまい」を学んでいくことになります。そう、学ぶべきものは「知識」ではなく「たたずまい」です。
その求められ、整えられていく献身者のたたずまいを、私はかねがね「断」「受」「専」「委」という四つの文字で理解しています。神学校に進み出て、学ぶ者たちに引き起こされようとしていることを覚え、祈り、応援して行こうとする私たち教会は、その当事者たちに何が求められ、どのような葛藤が起こっていくかということについて、ぜひとも思いを寄せていきたいのです。なぜなら、献身は、教会全体の問題でもあるからです。
断・受・専・委。この四つの意味合いを週報巻頭言に簡単に記させていただきました。今朝は、この内、「断」と「受」この二つのたたずまいについてご一緒に見つめてみたいと思います。

まずは「断」です。これは「断絶」の断であり、「断念」の断であり、そして「決断」の断です。献身には、どうしても何かを断ち切る、という必要が伴います。自分の願望の延長線上で献身はできません。また自分の経験の上に献身を積み上げるのでもありません。むしろ、自己の願望を断ち、自分の経験をいったん捨てる、そうした断絶や断念を迫られるのです。献身するとは、自分にとってそれまで重要であった何事かを断ち、福音宣教と教会形成のために生きる道へと、人生を方向付け、集中させ、そのために準備していく決断をすることだと言えます。そして、こうした「断」としてのたたずまいは、牧師になってからますます問われていくテーマだと言えます。
たとえば牧師は、赴任した教会で、何よりも説教(宣教)という「ことば」を取り継ぐ仕事を託されます。説教は、単なる聖書の解説ではありませんし、心に残るエピソード・心に染みる「良い話」でもありません。社会的問題意識の提示というのでもなければ、心理学的な人間考察でもありません。自分の人生経験談でもって主を証ししようなどと意気込んでも、5回も語れば話は尽きてしまうのです。自分が語りたいこと、語れることではなく、聖書が問いかけてくることを聴き取り、自分自身が問われている者として語り継ぎます。ですから、「自分の思いを断つ」という、実に不安な状態に自らをさらさねばなりません。怖いことですが、毎週、そこから始めていくのです。この「断」なしで聖書に向き合っても、聖書は語り始めてくれないのです。説教・宣教を語るという仕事は「断」から始まります。
牧会の現実は、人間の喜怒哀楽との向かい合いです。人生の四苦八苦への寄り添いだと言っても言い過ぎではありません。牧会は、その中で一人ひとりを主イエスへ結びつけていく役割です。時には、人々の抜き差しならない問題に立ち入らざるを得なくなることもあります。同伴していると自分に火の粉が降りかかってくることがあります。でも、逃げ出せないです。もとより、関わるならば逃げ出さないという覚悟が問われています。人間の経験する様々な「裂け目」に立ちながら、主がくださる回復と癒やしを乞い求め続けるのです。ここでも逃げ場を断つという「断」が問われてきます。
牧師を始めとする献身者の仕事はいつもこのような「断」と背中合わせです。ですから、献身し、神学校の門を叩くところから、この「断」を身に受けて歩き始めなければならないし、「断」という生き方を学ぶのも献身者の大切な道のりなのです。
ところで、こうも「断」ということばかり強調されますと、なんだか、とても人間業に思えないと感じられることでしょう。けれども、「断」は、恵みあふれる人生の入り口に立つことでもあります。聖霊が語るべき言葉を与えてくださり、烏が肉を運んできてくれ、天からマナが降ってくる。この恵みの出来事は、信仰に賭けて生きる者の現場にほんとうに起こるからです。

今朝は、ペトロたちがイエスに出会い、招かれていく場面の前半を読みました。あそこの場面にも一つの「断」があります。漁師を生業として生きていたペトロたちが、一晩中漁をしても何一つ獲れず、徒労の疲れの中で投網の手入れをしなければならないという重い空気の中にイエスが呼びかけます。「再びこぎ出して網を打て」というのです。普通なら「何を、素人が!」と跳ね返すはずの場面です。まさしく「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」なのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と、ここに「断」があります。普通は、「そう仰いますが」「お言葉ですが」と自分の経験と現実とを擁護したくなるのですが、「しかし、お言葉ですから」と、自分の現実を横に置いて従う。「お言葉はそうですが、しかし、現実は」ではなく、「現実はこうです。しかしお言葉ですから」と、出来事の順番を入れ替えていく、それは、まさしく「断つ」というたたずまいなのだと言えます。

次に「受」、受けるという姿に目を向けて参りたいと思います。
私は、つくづく神学校という場所での学びは「恵みの学び」であると思っています。神学校という学びのチャンス(場所や時間)は、贈り物(ギフト)として受け止めるものではないかと思います。まさに「受」です。人が「神学校に行こう」と献身の決意をすることも、その決意が教会のみなさんに受けとめられ祈られていくことも、そしてその人が神学校に導かれることも、すべては「受け」です。身体の不自由な人が、その床の四隅を握られ、イエスのところに運ばれていったように、しかも屋根を破ってつり降ろされるような破天荒な持ち運ばれ方さえしてイエスのもとに連れ行かれたように、献身を決意したその人が伝道者とされていく道のりの中には、多くの人々が床の四隅を握り、縁を掴んで持ち運んでくれているのです。「受」です。神学校に入学することが許されたその時、自分が、「持ち運ばれてここに来た」「許されつつ贈られつつ、この学びの日々を過ごすのだ」ということを心に刻み、畏れつつ歩みを始めるべきでしょう。
一念発起し、自分の意志で神学校の門を叩き、誰にも世話にならず、自分の力で学びを続け、課題を満たして卒業した! 一見、自立した見事な姿のようですが、その自意識が「教会に仕える」という基本姿勢を組めなくしてしまいがちです。「神学する」とは神の御心に仕える取り組みであり、同時に教会に仕えようとする作業です。確かに神学校では科学的な方法、批判的方法を取り入れて神学諸科目を学びますけれども、大切なことはそれらの営みが「神と教会に仕える」ということにきちんと位置づけられていることです。 神学の学びはそれなりに面白いものです。教会との繋がりを忘れていても、それとして研究が続けられるほど奥も深いです。もちろん、神学を楽しんだらいいし、深めてもいただきたいです。ただし、その学びの時、学びの場は、人々によって自分に贈られた機会・ギフトであるということから決して離れてはならないのだと思います。

私たちが神学校週間に捧げる「神学校献金」の用途は、神学生たちの奨学金のためです。他の用途はありません。神学生たちは、この奨学金を全面的に受けて学んでいきます。
奨学金を受けて学ぶ。私たちはこの制度を大切にし、この制度を用いて神学生たちが学んでくださることを心からお勧めしたいと思います。なぜなら、奨学金とは決して「学費の工面」という経済的テーマではないからです。そうではなく「恵みの繋がり」「繋がりの恵み」のテーマです。奨学金は、それを献げる人々の祈りであり、捧げている人々の献身の現れでもあります。神学生はそれを受けとるのです。諸教会のみなさんの祈りと一人一人の草の根の献身を、神学生たちは、自分にとっては、教室として、授業として、学友との交わりとして、そして寮生活として受けているのです。
バプテスト教会は、信徒の教会であり、もともとは信徒の中から牧師を立てて行きました。立てた人々は立てられた人を支え、立てられた人は立ててくださった人々の祈りと献身を請け負うようにして学び、そしてやがて牧師職に専心して行きました。この出来事は、もちろん今も、教会における信徒と牧師の関係の事実です。どちらか一方の強い召命観や意気込みだけでは維持できない関係性による賜物です。そして、この関係には当然ながら、互いの緊張関係と互いへの尊敬が不可欠でもあります。「受けて生きる。立てられて生きる。」「人を立てる。そして、そのために献げて生きる。」 こうした関与関係の血を通わせるような、すこし面倒くさい関係性を活かし用いてこそ、バプテスト教会はつくられていきます。バプテストの献身者だからこそ、この教会現場の関係性を、神学生時代から身に受けていくことが大事なのだと、私は思います。
奨学金を受ける。それは、確かにかなりのプレッシャーです。このプレッシャーを受けるぐらいなら、払えるものなら自分で払いたいと言う人もあるかもしれません。しかし、献身者の学びとは、「仕えるための学び」です。多くの人々の祈りと献金(献身)を受けて為される学びです。「誰にも世話になってない」というのは、自由なようですが、背後に繋がりの無い、期待の無い、祈りの無い学びになりがちです。むしろ、奨学金を受ける、献金に支えられることによって、繋がりと恵みに囲まれていくべきだろうと思います。このプレッシャーこそが繋がりの恵みです。ですから、是非とも奨学金を受けて、その繋がりの恵みを身に帯びて、神学校で学んでいただきたいのです。
今朝は読みませんでしたが、先ほどの聖書箇所の後半。イエスの言葉どおりに網を打ち、たくさんの魚の重みを全身に感じたペトロたちは、主の前にひれ伏します。自分の経験と能力を超えて何かが起こるのだ、という事実の前に撃たれていくのです。そんな彼らに、主の招き、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」という宣言の声が注がれるのです。ペテロたちは「すべてを捨てて」、すなわち網を捨て、また家族を置いて従った、とあります。「捨てて従う」と聞くと、「ハードル高すぎ」と誰しも感じることでしょう。けれども「捨てて従う」とは、逆に「ハードルは低いのだ」と考えることもできます。もしも、「従うならもっと学んでからだよ」「従うならもっと身につけてからでしょ」「たくさん持って、たくさん増やして、それから従いなさいよ」と言われたら、いったい誰が従えるでしょうか? いつ、そんな日が訪れるでしょうか?
そうではなく、主はきっと「何もいらない!」と言ってくださっているのだと思います。経験も学識も人々が目を引く能力もいらないから従ってきなさい!と。「持たずに」で構わない、「持てずに」で構わない。むしろ、全ては備えられることを信じて、何かを握りしめた手を開いて従ってきたらいい、と招いてくださっています。
「断ちなさい。断てば、恵みに囲まれる」と主は約束しつつ招いてくださっています。
そして、それは、私たちの誰にも注がれている招きの言葉でもあるのです。【吉高叶】

関連記事

PAGE TOP