使徒言行録2 章1-13 節
炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。(使徒2:3-4)
「啐啄同時(そったくどうじ)」という言葉があります。「啐(そつ)」は鶏卵が孵化(ふか)しようとするときに殻の中から雛が突く様子、「啄(たく)」は、まさにその時、外側から親鳥が殻を啄(ついば)む様子を表していて、これが同時に行われることによって「命が開く」姿を示している言葉です。禅の言葉でもあり、「機を得て両者が相応ずる」ことです。
今日は「ペンテコステ」。聖霊降臨日を覚える礼拝です。聖書・使徒言行録2 章1 節以下には、イエスの復活から50 日目に、弟子たちに神からの聖霊がくだり、弟子たちがさまざまな国々の言葉で語り始めていったという不思議な出来事が記されています。「イエスは救い主キリスト」この証言が、地域や国を超えて世界に伝えられていく起点となった事件として、キリスト教会では大切に記念され、祝われています。私は、この聖霊降臨の出来事には、神と人間(弟子たち)との「啐啄同時」が起こっていたと感じます。弟子たちの「啐」、そして神の聖霊の「啄」です。
美しい虹の周りには、雨の名残が暗く縁取っています。あの暗い縁取りの中で、透明感のある虹の輝きは浮き立ちます。虹は、雨を含んだ空気に光が照らされることによって輝いているのです。ペンテコステは、その現象だけを見れば「突然、風のようなものが吹いてくる音がして、弟子たちの頭の上に炎のような舌がとどまり、弟子たちが他国の言葉で語り始めた」のですが、そうした弟子たちの変貌の輝きの背後には、濡れ淀んだ悲しい影がありました。イエスの生前、主を誤解し、裏切り、逃亡し、否認した事実です。失敗と挫折と後悔です。けれども、イエスはもともと、そのような弟子たちの弱さを知りながら、独り十字架に向かって行かれ、復活した後は、そのような弟子たちのところに戻ってきて、彼らを包み、励ましていきました。弟子たちは、「赦し」を浴びているような日々を、復活のイエスと共に、しばらくのあいだ過ごしたのです。
イエスが天に昇って行かれた後も、弟子たちは待ちました。「赦された罪人」同士としての互いをいたわり合いながら、集まって祈りました。そうして、弟子たちの「啐」の時がそこにつくらたのです。神からの新しい力、神の息(風)は、その時、その「啐」に呼応する「啄」として弟子たちに注がれました。弟子たちの得た新しい言葉は、自分の弱さに根ざした「いのちに吹く、優しく新しい言葉」だったに違いありません。吉髙叶