テモテへの手紙二4 章1-8 節
御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。・・・だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。(Ⅱテモテ4:2-3)
「福音の知らせ、福音の問いかけ(教え)を、たとえ折りが良くても悪くても宣べ伝えていきなさい」。Ⅱテモテ4 章は、1 世紀初頭のキリスト教共同体の中に、次第に曖昧さが広がり、緊張感が失われていく現実を見据えながら、そう語っています。「だれも健全な教えを聞こうとしない時代が来る」からだ、と。そして「人々は自分に都合の良い(耳障りの良い)ことを聞こうとしたがる」ようになるからだ、と。
「健全(ὑγιαίνουσα/ヒュギアイヌーサ)」という語はもともと医学で使われる言葉です。たとえば「この人は健康です」「体が良く機能しています」という時に使われます。ですから「健全な教え」というのは、単に「正しい教え」というのではなく、「人を活かし、人を癒やし整え、人を養い育てる教え」だということです。健康を保っていくためには、肉やスイーツばかり食べていてはだめです。治療のためには、苦い薬を飲んだり、痛いリハビリをします。時に、医者から「生活を改めなさい」と注意を受けます。これらは、決して自分に心地よいものではなく、辛かったり、痛かったりしますが、どれも私たちを整えて活かそうとするものです。
「福音」も、同様な働きをもって私たちに迫ってくるのかもしれません。「福音」は、私たちに「悔い改めて神の国を信ぜよ」と迫ります。「あなたの十字架を負いなさい」と招きます。それらは、決して耳に優しい言葉ではありませんが、私たちの人生を豊かに(健康に)しようと招く言葉です。「健全な教え」とは、私たちを気持ちよくしてくれる言葉ではなく、「神の国に向かって生きる力を回復させてくださる言葉」だと思います。私たちは「聖書」から常に問いを聞き、私たちは時に「福音」から挑戦を受けるのです。
去る「沖縄慰霊の日」に、参政党党首が那覇市での街頭演説の中で「沖縄は戦地にもされてしまった。まあそれはしょうがないですよ。一番南にあるから、地政学的にしょうがない。」と語りました。この人は、かねがね、かつて日本の引き起こした戦争は「侵略戦争ではない」と繰り返してきました。日本の過去を美化し、誇りを取り戻し、自国愛を高めようとする「歴史修正主義」の申し子です。「沖縄慰霊の日」に、「その現地」に立って、沖縄戦の痛みより、歴史への悔恨より、自分たちにとって耳障りの良い解釈を語ってしまえる姿が、どれほど「不健康」な状態であるかがよくわかります。吉髙叶