2026年6月21日礼拝「沖縄に、平気でいられない」

主日(沖縄をおぼえる)礼拝

ルカによる福音書19 章41-44 節

イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。」(ルカ19:41-42)

イエスはエルサレムに近づかれたとき、その町を見て泣かれました。福音書の中で、イエスが涙を流される場面は多くありません。しかしこのとき、イエスは声をあげて泣かれたのです。「エルサレムよ、お前もこの日に平和への道をわきまえていたなら……。」エルサレムは神殿のある聖なる都でした。人々は神を礼拝し、神の民としての誇りを抱いていました。しかしその一方で、この町はローマ帝国の支配の下に置かれ、暴力と緊張に満ちていました。人々は「力によって平和を守ろう」と考えました。敵を倒せば平和が来ると信じました。武力による救いを期待しました。けれどもイエスは、その先に待っている悲しい未来を見ておられました。
数十年後、このエルサレムはローマ軍によって包囲され、神殿は破壊され、多くの命が失われます。その結末を知っていたイエスは、それゆえに泣かれたのです。怒ったのではなく、裁いたのでもなく、泣かれたのです。彼・神の子は、滅びへ向かう町を見て涙を流されました。
本日、私たちは「6.23 沖縄慰霊の日」を間近に控えて、沖縄をおぼえる礼拝を捧げます。1945 年の「沖縄戦」で、沖縄は壮絶な戦場となりました。20 万人を超える人々が命を失いました。島民の四人に一人が亡くなったとも言われます。幼い子どもたちも、若者たちも、高齢者たちも、老若男女すべての命が「玉砕」に向かって追い立てられました。沖縄は「本土決戦までの時間を稼ぐための防波堤」とされました。「捨て石」にされたのです。その歴史を前にするとき、私たちは何を語ることができるでしょうか。うなだれて、ただ黙るしかないのです。けれども本日の「ルカ福音書」のフレーズは、その沈黙の中に響いてきます。「イエスは泣いておられる。神はこの苦しみを見ておられる。神は沖縄の悲しみを忘れておられない。」そう告げるのです。
しかし、本日の礼拝は過去を振り返り、追悼することだけの礼拝ではありません。イエスは過去の出来事を嘆いて泣いたのではないからです。「これから起ころうとしている悲劇」のために泣かれたのです。「平和への道をわきまえようとしない人間たち」のゆえに。その涙は、今の私たちに向けられています。繰り返し、沖縄を「悲劇の島」にして、平気でいられる人々に向けて、イエスは泣いておられるのです。吉髙叶

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