2026年6月7日礼拝「宿る信仰、呼び出される人々」

テモテへの手紙二1 章3-14 節

その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母ユウニケに宿りましたが、それが、あなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(Ⅱテモテ1:5)

先週の夜の祈祷会の時に、「宿る」という動詞のことが話題になりました。信仰が「宿りました」とか「宿っている」と記されていることについてです。「ある」でも「得る」でもなく、「学ぶ」でも「知る」でも「掴む」でもない。「宿る」と表現されると、頭(認識)ではなく、人の「努力」や「行為」でもなく、外からの柔らかな作用に包まれている感じがして、とてもホッとする・・・、そんな話で盛り上がりました。そうした語り合いにインスパイアされ、週の後半もその余韻をいただき、本日の宣教題を「宿る信仰、呼び出される人々」とした次第です。
古代のユダヤ教もギリシャ・ローマ宗教も、信仰の場を形成する重要要素は「神殿」です。神は神殿に住み、人々は神殿を訪れ、犠牲を献げて拝礼するのです。ところが、初代キリスト教会は、神殿を持たず、犠牲を献げす、祭司階級も持たない共同体(群れ)でした。そうした人々が、神が人の内に住まわれ、交わりの中に顕れる方であることを「宿る」と言い表したことにもうなずける気がします。信仰とは、わかったり持ったりするものではなく、「人の内に住んでいる『いのち』の現実」なのだということです。しかも、祖母ロイスから母ユウニケへ、そしてテモテへと信仰が「宿っていった」と、そんなつながりが書かれています。「教えられた」「学び取った」というものとはきっと違うのです。当時のキリスト教は新しい運動でしたから、聖典も未だなく、教会堂もありません。あるのは、集まって祈る姿、パンを裂いて分かち合っている姿、迫害や不都合に耐えている姿、励まし合っている姿、貧しい者を助けている姿。そうした「生き方」の中に「信仰が宿っていた」のです。そうです。信仰とは「教義の学びや継承」以前の、「生命の交わりと酌み交わし」であったのです。信仰が宿る・・・。なんて素敵な出来事でしょう。
また、「神が招きによって(自分たちを)呼び出してくださった」(1:9)と記されているのも意味深いです。何から呼び出されたのでしょう。当時の「価値」からです。社会的地位や身分、国籍、家柄、親族、属性などから呼び出され、それに捕らわれない共同体を形成していたということでしょう。教会を意味する「エクレシア」(ἐκκλησία)の語源は、まさしく「呼ぶ・招く」(カレオー/καλέω)であり、教会とは「呼び出された人々の群れ」と理解されていきました。信仰が宿り、人は呼び出される。素敵です。吉髙叶

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