2021年9月12日礼拝「視座・視点・視線」

ルカによる福音書8章43-46節/19章2-7節

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ルカによる福音書19章5節

私には里子の妹がいます。ゆかりといいます。私が小学3 年生の時に3 歳でわが家に引き取られてきました。が、ゆかりはそう簡単に新しい家に心を開かず、決して私の父・母のことを「おとうちゃん、おかあちゃん」とは呼びませんでした。それは一念発起
して里親登録をした両親にとって、たちまち思い知らされた挫折体験でした。
そんなことは知らず、兄の私はとにかく妹ができた嬉しさに舞い上がっていましたから、幼い彼女を友だちに見せたい一心で、親の目を盗んで自転車の荷台に載せて連れだしました。ところが途中、ゆかりの足が自転車の後輪にはさまり、大けがをさせてしま
ったのでした。全治三ヶ月の骨折でした。翌日からゆかりは太ももから足先までカチカチのギブスに固められ、足を伸ばし、廊下を手で掻くようにして暮らし始めました。
数日後、父は何を思ったか、自分の足にも堅い棒を包帯で巻き付け、ゆかりと同じように廊下を這って生活するようになりました。腹の大きかった父は、後ろにこけそうになりながらも、毎日その格好で暮らしました。不思議で、滑稽な風景でした。でも、父は真剣でした。「ゆかりが不自由してるんや。ぼくもそうするんや。」と言って。
しばらく経ったある日のこと、応接間で遊んでいるゆかりと父との間に異変が起こっていました。座り込んだ父の横で、積み木を手にして寄りかかっているゆかりが、
「つぎは、おとうちゃんが、これをここにのせて・・・」
「おとうちゃんは、そこにおくのとちがうの、こっちやん。」
そうです。いつの間にか、ゆかりが父のことを、「おとうちゃん」と呼んでいたのでした。「おとうちゃん」と何気なく呼びかけられたとき、父は体中に電流が走るような衝撃があったと、後で教えてくれました。その時の感動は、父と母のそれからの16 年に亘り5人の里子と一緒に生きる人生を支える力となったと言います。こうして、私の父(國彦)は、ゆかりの父になりました。私の母(美籠)は、ゆかりの母になりました。それは、ゆかりが不自由をしているときに、ゆかりの目線の高さ(低さ)に自分の目線を合わせ(下げ)、「同じ目線の高さで一緒に生活してみよう、そうしたい」という彼の思いが、ゆかりの心と繋がったのだと思います。「関係」というものは、いつも途上です。「その関係である」ではなく「その関係になる」ために人は一緒に歩み続け
るのです。その時に大切になってくるのが視座であり、視点であり、視線なのです。【吉髙叶】

 

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