2024年5月5日礼拝「神が夢見た食卓」

コリントの信徒への手紙一11 章17-27 節

ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。(コリⅠ 11:27)

黒人解放運動の指導者M.L.キング牧師が、1963 年8 月23 日のワシントン大行進の日にリンカーン記念堂の前で行った演説「わたしには夢がある」はあまりにも有名です。
「私は今日あなたがたに申し上げたい。今日も、そして明日もわれわれが困難に直面するとしても、私にはなお夢があるのだということを。私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、きょうだい愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。」
もちろん、職場のテーブル、会議のテーブルの事ではありません。それまで白人と黒人が共に座る事を禁じられてきた食卓(食事のテーブル)のことです。夢やビジョンが、このように食卓の風景として描かれることは、今日ますます示唆的です。なぜなら、今なお、食事を共にすることができない関係としての民族対立、相互嫌悪、歴史の禍根がこの世界に満ちており、食物や水をめぐる争いは多くの紛争の原因であり、食料の不均衡と飢餓の問題こそが世界の根本的な問題でもあるからです。
キング牧師の言葉の背後には「神の夢」への確信があります。神こそが夢を持っておられ、神の夢こそが違いを超えた食卓だったのです。しかも、神自らがまず「この私との食卓」を夢としてくださったのです。神の夢(望みとビジョン)が人となって遣わされたイエス・キリストは、「罪人」と呼ばれ排除されていた人々の家に入り、客人となり、「罪人たちの食卓」を「神の国のしるし」としてくださいました。その歩みは、十字架への道となり、「最後の晩餐」という食卓の風景を歴史に刻み遺すこととなりました。この食卓に座るために、人間の「がんばり」も「清らかさ」も「正しさ」も、なんら必要はないのです。むしろ、地べたを懸命に生きながら、不安を抱き、涙を流し、痛みを抱えるわたしたちの人生の労苦を共に味わってくださるために、イエスはここに、このままの私たちと共に、食卓を設けてくださるのです。
「ふさわしくないままで」この食卓に座ってはなりませんとパウロは言います。「ふさわしくないままで」とはどういうことでしょう。それは「この世の力や誉れに依拠したままで」ということ、そして「私たちも共に弱さを分かち合って生きることを忘れたままで」、「『互いの違い』を分裂の原因として放置したままで」ということでしょう。吉髙叶

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