2022年7月31日礼拝「大切に生きる」

エフェソの信徒への手紙5 章1-20 節

あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。・・・あなたがたも愛によって歩みなさい。(エフェソ5:1-2)

キリスト教が日本に伝搬したごく初期のころ、宣教師がさかんに語る「Love(愛)」をどのように翻訳すれば良いのかと思い巡らせた通訳は、それを「おたいせつ」と訳しました。それは実に意味深い選び取りだったと感じます。
「愛」は様々な姿をしています。「Fall in love」(愛に落ちる)というように、感情的な現象として受け取られることも多いでしょう。また「偏愛」とか「自己愛」など、どちらかというとネガティブなニュアンスを伴う場合にも「愛」は使用されます。ところが、「おたいせつ」すなわち「大切にすること」と読み替えることで、そこには感覚や感情とは異なり、かつ本能的傾向を抑制した、人間の丁寧な観察と意思と取り組みが加えられたものとなります。「大切にする」とは、わたしたちがただそこに「落ちる」ようなものではなく、注意深い思考、選択を伴う行動、未来への考察などが引き起こされる行為であろうと思います。
神が人間への関わりの態度として示された第一のものは「愛」です。聖書は、その「愛」を示すために、神はイエス・キリストをわたしたちに贈ってくださったと語り、イエス・キリストに結ばれ、キリストに倣う(習う)者となりなさいと呼びかけています。神はこの被造世界を大切になさろうと今も働いておられ、また私という存在をとても大切にしてくださっているのです。それゆえに、私は何よりもまず自分自身を大切にし(それは自分の意のままに生きることではなく)、また私が向かい合うすべての存在を大切にしていく生き方へと招かれているのです。大切にするためには、向かい合うものの存在の尊厳を認め、また未来を測り見なければなりません。大切にするためには、優しいまなざしや落ち着いた思考・知性が必要となります。さらに、その上で、「存在を台無しにするもの」を見極めたり、それを排したりする勇気や決断をも求めてきます。Ⅰコリント13章の「愛の賛歌」が語るように、愛=大切にする業は、忍耐強く、親切で、自分のやり方を押し通そうとせず、憤らず、真実を喜ぶのです。大切にしていく道のりは、台無しにしようとする力を忍び、耐えながら、なおも信じ、望みを抱く歩みです。
コロナ感染状況が長引き苦しみ疲れている私たちですが、きっと人間や社会が「大切にするべきもの」について洞察するように促されている時、そう「大切に生きるべき時」なのです。私たちはコロナの深い霧の中で「愛」へと辿り着かねばならないのです。【吉髙叶】

 

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