2023年7月30日礼拝「息とだえ、息づまる土たち」

創世記3 章1 ~ 12 節

アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」(創3:8-9)

「息する土」としての本質を与えられた人間。そして「息交わす土たち」としてのもう一つの本質へと整え直された人間。神と向かい合い、神から息を受けるようにして生きること。人と人とが向かい合い、息を交わし、息を合わせるようにして生きること。それが人間のほんらいの姿=本質であると「ヤハウィスト資料」は書き表します。しかし、B.C.(紀元前)1000 年頃に、こうした「人間のほんらいの姿」を問うた「ヤハウィスト」たちは、現実・実際の人間の有り様をも良く知っていたのでした。ヤハウィストが集めてまとめた「断片資料」が語られたり、伝えられたりしていた更に古い時代(B.C.1200 頃)は、イスラエル諸部族が、エジプトの奴隷生活から脱出してカナンの高地に定住を始めた頃でした。荒れ地を開墾して農業生産に挑み始めていた時代です。日の出から日の入りまで続けられる荒れ地との格闘。岩と茨と蛇の妨害にほとほと手を焼きながら、開墾は続き、ようやく耕した薄い土壌からわずかな作物を得て生きていく暮らしです。家族総がかりで働き、一人でも多くの子どもを働き手として得たい。女性たちは頻繁な出産を求められていきます。そのような開拓農民たちの労苦を背景に、それら人間の根源的な労苦と痛み―すなわち果てしない土との格闘、出産の激痛と危険。にもかかわらず人間がどうしても、そこから離れてしまえない宿命と言えるでしょう―それらにまつわる「原因譚物語」として、創世記3 章のいわゆる「失楽園」物語は記されていったのだと思います。「『神の禁止』を破った結果(罰)」という枠組みの中に、労苦伴う人生を理解し、受け止めようとしたのだと思います。
ところで、原文の文体は実に巧みな語呂合わせになっています。恥(arur・アルール/2:25)と賢い(arum・アルーム/3:1,3:6)と裸(arom・アーロム/3:7,3:10-11)が絶妙に掛け合わされているのです。どうやら「賢く」なってしまうことと、「裸」であることを自覚して、それを「恥」と感じてしまうこととが密接に重ねられていて、それによって人間が「神から顔を背けて身を隠す」ような存在になってしまったように描くのです。たいへん示唆に富んでいます。本来は何一つ不足の無い「楽園」に置かれたはずの人間は、尽きない不足感とエンドレスの所有欲(裸の恥)に巻き取られ、神と息を交わすことより他の別のことを望むようになります。他者と息を交わすことより他者を利用するようになります。こうして「土たち・人間」は、「息途絶え、息詰まる土たち」となってしまうのです。(吉髙叶)

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