2022年2月13日「むしろ、十字架に背負われる」

マルコ福音書 8 章 27-38 節

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ 8:32)

イエスについての評判は実に様々でした。彼の言葉と業とがあまりにも鋭く、また常人離れしていましたから、「過激な批判者」「預言者の一人」「新しい教師」「革命の志士」「魔術を使う医者」「崩れ律法学者」「いかさまな扇動者」など様々に噂されていたと思います。イエスは弟子たちから、そうした噂の報告を聞いた後、弟子たちに「それでは、あなたたちは、私を何者だと言うのか」と直截に尋ねられます。
ペトロは即座に「あなたは、メシア(救い主)です」と答えます。一見、的を射た見事な告白に思えましたが、直後にイエスが打ち明けた「受難の予告」を受け入れ切れずに、すかさずイエスを諫めてしまったことで、イエスから「サタン、引き下がれ」と叱られてしまいます。「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われて。福音書のストーリーには、ある主題が通奏低音のように流れています。それは「人間はこのイエスを、誰だと考えるか」、そして「人はどこに救い主を見い出そうとするか」という主題です。それは素晴らしい教えによってか、麗しい姿によってか、驚くべき奇跡によってか、癒やしの力によってか、人々を引きつける魅力によってか。そこは山の山頂か、群衆の歓喜の中にか、エルサレム神殿の威厳の中にか。著者マルコは静かに答えています。「ただ、十字架の上に。はりつけられ、殺される姿の中に」と。著者マルコが、イエスへの真の「信仰告白」を描き出すのは十字架の場面においてです。息を引き取られたイエスを十字架の下から見上げていたローマの百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」という告白を通してです。山の頂ではなく谷の底に、神殿の祭壇にではなく十字架の下に、救い主は見いだされ、信仰の告白は起こされるのだと告げています。そしてこのイエスの十字架という「死の場面」は、彼の「生の姿」「人々との関わり」と深く関連し、また「神のこと」を思うそぶりを見せながら「人間のこと」を思う欲望に塗(まみ)れた当時のユダヤ宗教体制との「闘い」と強く関連しています。
「神のこと? それとも人間のこと?」。これはそう単純ではなく、実にやっかいな問題です。どんなに美しく敬虔な宗教性の中にも「人間的な願望や欲望」は潜んでいます。いいえ、キリスト教(教会・キリスト者)が「十字架」を掲げる場面にあってさえ、「人間のことを思う恣意」が強く働いているようにも思います。人間が「十字架」を定型化された教理の中で「扱おう」とするところには「人間の願望と作為」が 蠢 (うごめ)いています。【吉髙叶】

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