2022年10月23日礼拝『「慈しみ深い神の御手」とは』

エズラ記8 章18-20 節

これらの事があって後、ペルシアの王、アルタクセルクセスの治世に、エズラがバビロンからのぼってきた。(エズラ7:1a、6a)

エズラ記・ネヘミヤ記は、「今、現在の世界」「今、現在の日本」という場所から読むと、本当に理解しがたい書物です。でも「聖書」と呼ばれる書物の中にこのような事柄が記述されていること、イスラエルという民族の歴史として記述されていることは、重要なことですし、貴重なことだと思います。そして、歴史的な事柄の中で、「今」のわたしたちが「理解しがたいこと」が書かれていることもまた、今のわたしたちの立ち位置を考えるためには必要なことだと思います。
今週まで読んでいるエズラ記は、「性差別」「権威主義」「排他性」ばかり、と言ってもいいかのような書物です。1 章から6 章の記述の中では、バビロンから解放されて「帰って」きた人たちの人数は「男性」しか数えられていません。また、イスラエルは、ペルシア王という立場の「権威」によって事柄を進めていっています。わたしたちが今、生きている日本で、それを行っている人たちや宗教のことを容認できるかと考えると、それは難しいことでしょう。
7 章で、2 回目の帰還グループの人たちと一緒に、やっとエズラが「帰って」きます。6章と7 章の間には、更に50~60 年ほど経過しており、エズラを迎えたのは、完成した神殿という建物と、礼拝する人の不在(8 章)、そして「イスラエル民族の男性がイスラエル民族出身ではない人と結婚している」状況(9 章~10 章)でした。「他の国の人とパートナー関係を結ぶ」ということは、今の時代の日本においても。「歓迎」されにくいことなのかもしれません。しかし、それが国のリーダーによって「悪事(9:2)」「恥じ入る(9:6)」「罪悪(9:6)」と言われ、離婚させられること(10:5)は、さすがにないと思います。(それに近いことはあったとしても。)そのうえ、それに従わなかった人たちは全財産を没収され、民から追放されることになりました。(10:8)このことは、今日のキリスト教界にも大きな影響を及ぼしています。
いわゆる「パレスチナ地方」では、今、現在も、戦闘状況にあります。「エルサレムはイスラエル民族のもの」というシオニズムの思想は、その名前こそ、ゼカリヤ書に由来しますが、エズラ記・ネヘミヤ記にも大きな起源を持っています。
これらの事を、わたしたちは、どのように考えて、聖書を読んでいけばよいでしょうか。「神の御手」とは一体何でしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。【臼井一美】

関連記事

PAGE TOP